8 グロテスク
人は肉体の奴隷だ。
体が動かなければ、蓄えた知性も信念も腐っていく。ベッドに縛り付けられている間にも星は巡り、老いだけを置いていくのだ。
彼女は同士だった。
彼女もまた、停滞しながら老いていくことに怯えていた。互いに交わらない戦場で交わす言葉は、何よりの鼓舞だった。
残り少ないインクを貸しあうように、互いに足りないものを満たしながら過ごしてきた。
ローラ……リリオペに何が起こったのか。何を思っていたのか。
後から何もかもを知ったケヴィンには、想像するほかない。
幼少期から幾度となく死にかけてきた彼女は、母と寝室が同じだった。
語り部ミケはそこに顕現し、リリオペに受胎を告げたのだ。
ケヴィンはそのとき、生涯のうち何度目かの死神との駆け引きを行っていたから、彼女自身か、もしくはその家族は、『こどものために』次の手を打つことにした。
リリオペは、孤独に戦ったことだろう。
レイバーン帝もまた、息子のために決断をした。
レイバーンの伝記には、後半に行くにしたがって懺悔と後悔の言葉が増えていく。花嫁とその両親は、娘と孫の盤石な将来を願い、レイバーンもまた、息子とこのこどものためにそれを叶えたいと考え、双方は同意した。事は赤子の生育という上で、一刻も早く方針を定めねばならなかったからだ。
朦朧として自発的に食事も行えないような状態の男に、何かの意思を確認するような余裕もなく、すべては病人不在のまま、問題のない落としどころへと治められた。
ケヴィンがすべてを知ったとき、何もかもが遅かった。
やるべきことはなく、友の寿命は、息子に捧げられていた。
彼女の命は、もとより脆くて軽かった。老いて生まれた一人娘である彼女は、家門の復興の願いを背負って誕生し、それを叶えると、春の雪のように消えるさだめとなった。
そのことをあまりにも悲しんでくれたから、ケヴィンは、父レイバーンを憎むことをできなかった。
何も知らない兄弟たち。ケヴィンは、アルヴィンを息子として愛せる自信がなかった。けれども、末弟としてなら愛する自信が僅かながらあった。
兄や姉がしてくれたようにするなら、このこどもを愛し、守ることができる。
ただ一人の父としてではなく、四人いる兄姉のひとりとしてならば、そのやり方ならば、わかる。
アルヴィンは、親に似て病気がちだった。
体が小さく、きっと、それほど強くもならない。
個体として弱者で生まれ、いろんな違いに苛まれながら生きていくことになるだろう。
けれど、リリオペとはその弱さで繋がった。それならできる。それならやれる。
兄にされたように、君にしたように、そうしよう。そういう愛し方なら、できる。できていた。だから。
だから……。
「アルヴィンは知っていたのか……? 」
「わからない。敵が動揺を誘うための言葉かもしれない」
「いつから……ああ……どうして。どうしていつもいつも、僕は間違えるんだ。いつも終わってから間違っていることがわかるんだ。それなのに、すべてが間違ったまま人生だけがのうのうと続いていく。どうしてアルヴィンが……」
ケヴィンは、椅子から崩れるように床へ膝をついた。
うなだれ、頭を重く下げ、サリヴァンを垂れた髪の間から見た。
「頼む……! 」
男の指が床を掻く。
「あの子がまた甦るなら、何を捧げても構わない……! 頼む……! どうか、力を貸してくれ……! 」
悲鳴が床を這い、希望にすがる手が足をつかんだ。
「助けてくれ。あの子は、こんなふうに喪われてはいけないんだ……! 」
「……それは」
サリヴァンは気圧されていた。枯れた声が出た。助けを求めて師を見たが、いつのまにか彼女は退室していた。
咥内を唾で湿らせ、ケヴィンの強ばった手をとる。
「……それは、できません」
「何故……! 」
「あなたが何を差し出そうと、命を魔法であがなえば、対価を払うのは甦った本人だからです」
重ねるようにサリヴァンは言った。
「アルヴィン皇子は、一度蘇っている。肉体を銅板の火にくべて、人間ではなくなってしまって、それでも少しずつ、失った対価の負債を取り戻していたところでした。甦ったアルヴィン皇子が次に何を失うのか。誰にもわからない。今度は魂を火にくべるのか、また理性のない怪物になるかもしれない。どちらにしろ、二度と元には戻らない。それでもと願うのなら、おれに命じてください。頼みじゃ、おれはきけません」
力を失った体を、サリヴァンは支えながら床から起こした。
椅子に座らせ、サリヴァンは重く繰り返す。
「おれは魔術師。時空蛇の臣下です。……生きている人のためにこの力を使うという誓いがある。死人に傷をつけるために、力を奮うことはできません。……少し休んでください」
サリヴァンは部屋を出た。
そこに、ヴァイオレットが立っていた。
「『やれない』とは、言わなかったわよね」
燃えるような瞳で立っていた。