8 不幸あれA 終
◇
――――かつてのことを思い出す。
ジジはわざわざ体を折って、水に差し込んだ手で下に沈んだ石畳を撫でた。
ジジの瞼の裏には、この石畳と同じ形をした場所が記憶されていた。
フェルヴィンの地下墳墓と同じ施工技術を受け継いだモザイクの石畳や建物の様式は、暗闇の時代を生きた者であれば、記憶をなぞられるほどよく似ている。
地下にあるからか水温はぬるい。
自然に存在した縦穴の洞窟に補強を繰り返して作られたその空間は、かつて祭壇があり、建物があり、ジグザグに下へと向かいながら、小さな村のそれなら収まるほどの、広い空間があった。
段階的に下層に行くにしたがって水に沈んでいくそこは、澄んだ地下水だけが行き来して千年以上が経っている。
そのあいだに繁殖した光を反射する苔植物が、わずかな光源を受けて淡く緑色の燐光を纏い、空間を浮かび上がらせていた。
とうに入り口も出口も崩落し、崖っぷちとなった無数の階段の瓦礫の丘から、「ひょえええぇえぇえ! 」などという情けない声を上げて、浅い水底に少年が落ちてきた。
おそらく落下の衝撃で一回あらびきになっただろうが、さすがに状況を見てか、ぐにゃぐにゃと起き上がって動き出す。
彼が最後だ。
ジジの目の前に、グウィンが『教皇』のスート兵に支えられながら、銀の檻に捕らわれた捕虜とともに降りてくる。赤い騎士と屍人使いは、吐息の音すらしないほどジッとしていた。
闇に青い炎が上がる。
その影を受けて、無数の影が粘着質に塊と分離を繰り返しながら飛翔し、脂ぎった体を光らせる。
「はぁぁああああああッ! 」
血管の浮く白磁の拳が、その蛇腹状の腹を撃ち抜いた。濡れた金の髪がひるがえり、水滴を散らす。
知能の低い蝗どもは、外を探して上へ上へと向かいたがった。それを『女帝』に従う金の有翼戦士たちの放つ槍や弓矢が、その胸や頭、翅を貫いては破り捨てていく。
その援護を受けて、蝗の群れを焼き捨てながら、アルヴィンとヒースが黒の騎士に到達した。
左右から挟むように、星を宿す炎と銀の檻球が迫る。
石畳に膝をつけていた騎士は、輪郭を暗闇に融け込ませるように新しく生み出した蝗を身代わりに、水面を滑ってそれを避けた。
右だけの黒々とした瞳は、ひとつの動揺も無い。
――――そして。
「ジィイイイイインッ! 」
コネリウスは、身を預けていた『金のスート兵』から空へ身を躍らせ、中空で炎を踏みしめている『青の騎士』ジーン・アトラスに向かって、砲弾のような拳を降らせた。
小柄な体が、三倍はあろうかという巨躯を受けて落下する。その撃ち落されるまでの一秒にも満たない時間、コネリウスは兄の襟をつかみ、三打打ち込み、頭を下になるように放り投げて自身は危なげなく着地さえしてみせた。
(……あれ、サリーがマナー講座している間にだいぶ仕上げてきてるな)
ジジは呆れた。
とても百に手が届かんとする老人の奮闘っぷりではない。
らんらんとした青緑の瞳は燃え、体は濡れて艶々としていた。
筋肉の隆起が重なってぶ厚く太くなった全身からは、水分が蒸気となって立ちのぼる様の幻覚が見えそうなほどだ。
とにかく、異様なほどに生命力があふれている。
老熟された『龍の先祖返り』とはこれに至るということなのか、車中で髭を剃ってきたらしいコネリウスの肌艶は、皺はいくらかあれど老人のそれといえなかった。
落下したジーンは、冥界の炎で編むように全身をまといながら立ち上がり、炎を蹴ってコネリウスに肉薄する。その目は対照的に、冷たく虚ろだった。華美な銀の鎧は美しいがそれだけで、佩いた剣もなまくらに見える。
しかし何度打ち据えられても、超然としたまま立ち上がり、流れるように攻撃へと転じた。
動く雪像を相手にしているような、そんな感触。
コネリウスの目には、それでもそれは雪像ではなく、兄そのものに映っていた。
「ジーン! 兄さんッ!」
だから呼ぶ。名前を呼ぶ。
「――――おれを、見ろッ! 」
凍り付いたその奥、雪像を砕かんと、封じ込められた兄に叫ぶ。
老いたこの姿を見ろと。語り部を喪い、双子の兄も喪い、妻にも息子にも、先立たれた男が叫ぶ。
撃ち、撃ち、撃ち―――――。
「見ろォオオオッ! おれは、何も変わっちゃアいないぞ!!! 」
雪像から、ほ、とかすかに息が漏れた。
「……いや、変わっただろ」
皮肉げに薄く笑った白い貌に、コネリウスは溌剌と笑いながら、こぶしの握りを硬く締めた。
兄の胸に、何度目かの弟の拳が撃ち込まれる。
水の上に仰向けに倒れたジーンは、憎まれ口を叩きながら、胸の上に置かれた弟の手のひらを受け入れた。
「愚弟め。七十年ぶりか? 相変わらず鏡を見ていないようだ」
「へへ、鏡よ鏡……ってな。いい感じになっただろう? 」
「いつも言っていたろう。バカも休み休みだぞ。ここまで治らなかったんだ。おまえのバカは不治の病だな」
「兄貴の皮肉も、死んでも治らなかったな! 」
「……そうでもなかった。お前にだけさ。お前にだけ―――――」
鎧の胸の上、銀の指輪が白く光を放つ。
コネリウスと同じ色をした瞳を閉じてもなお、ジーンは満足げに薄く微笑んでいた。
◇
黒い騎士は、無尽蔵に蝗を生み出すことができた。
蝗の脅威は、その屈強な顎と歯、腹以外を覆う黒鋼のような体である。
蝗の王、アポリュオンは龍であった。その眷属たる蝗たちもまた、龍に例えられるにふさわしい体を持っていた。星のかけらに相応しき肉体である。
ジーンの胸に浄化の『杖』が置かれたことを認め、ヒースは蝗討伐をアルヴィンに任せることにして距離を取った。
もはや地下神殿は蝗どもで溢れ返り、グウィンですら防衛に当たっている。
その気になれば炎で空間を満たすことができる、アルヴィンの炎が必要だった。
「――――ってことなんだけど」
アルヴィンは深く頷くと、炎をまき散らしながら勢いよく後退した。
(……さて、やるか)
「【”我が愛する境界の女神よ”】【“夕暮れの暗がり”、”満月と新月のあいだ”、”暁のさす木陰の貴き淑女”】【“わたしはあなたの金の弓に守られし女鹿”】」
銀の線が空間に走り、ヒースの行く先を切り拓いていく。
靴の裏はすでに水に触れていない。銀檻の中、一陣の鏃となってヒースは黒い騎士に迫った。
その差し出された手の先に握られた杖先に白々とした光が灯る。
服の下、胸から足にかけて刻まれた銀の刺青が人知れず燐光をまとい、肉体から魔力を吸い上げ、祝詞が呼び出した力とともに編み込まれていく。
「【”隔絶せよ“】【”乖離せよ”】【”断ち切り”】【”分離し”】【”隔離せよ”】―――――」
「【”アポロ――――」
腕が弓打ちの形にひかれていく。キリキリと魔術の糸が引かれ、今にも放たれんとした、そのときだった。
空間がしなった。
ヒースにはそうとしか表現ができなかった。
津波のような大きな『うねり』が、ヒースを銀の鏃ごと押し流し、大きく揺らした。編まれた一すじの力は黒の騎士を逸れ、天高く打ちあがってあたりを照らした。
壁が迫り、ヒースは銀籠を鏃の形から柔性のあるかたちに変えなければいけなかった。くらやみに目を凝らす必要もないほど、周囲が明るく、それこそ小さな太陽があるかのように白金の光で照らされている。
あかあかと、燃えさかる人が立っていた。その体を覆うように、大きな男の体があり、灰になりつつある外套が垂れ下がっていた。
白熱する光に照らされて黒いしみのようになっていたが、かたわらにジジが膝をついているのが見えた。
全身が燃えつつある赤の騎士は、黒い影のようになっていた。
真っ白と真っ黒のシルエットになった男は身を起こし、燃え盛る片腕を、薄く小さな体から抜き去る。
アルヴィン・アトラスの胸の空洞から伸びた罅はまたたく間に全身を侵し、光の収束とともに―――――『星』は朽ちるように砕けた。
金属どうしが奏でる硬質で澄んだ音が、あたりによく響いた。




