8 君という花
もそりと、ヴァイオレットは布団から顔を出した。
「体調は? 問題ない? じゃあこれ食ったらもう一度寝ろ。部屋からはトイレ以外出てくるな」
ドン、と食堂のテーブルに座るヴァイオレットの前に置かれたのは、大きなボウルに詰め込まれるように配置された食事だった。
くたくたになるまで低温でグリルした野菜と、薄切りの加工肉には、塩と胡椒だけでかんたんな味付けがされている。それに温かいパンとプティング、そしてボウルの隣に添えられたマグには、たっぷりの牛乳が湯気を立てていた。
サリヴァンも向かいに自分のぶんも置き、祈りの言葉もそこそこに食べ始めた。ヴァイオレットもつられたようにマグを手に取って、甘くされたミルクで舌を焦がし、パンをちぎって肉と野菜からこぼれた汁まですくって平らげた。
あとは追い出されるように部屋に詰め込まれ、やることもないので歯磨きもせずにベッドに転がってしまえば、瞬きの間に窓の外には夕暮れが広がっていたというわけだ。
寝起きの体は気怠い熱っぽさが残っているが、頭はすっきりと冴えている。
あれだけ食べたのが夢だったのかというほど、お腹が小さな音を立てていた。
◇
「起きたか」
夕闇で暗い廊下の奥、灯りのついた食堂で、兄は朝と同じように長椅子に寝転がっていた。
半分閉じた瞼のまま起き上がると、手元だけが手際よくお茶の準備をはじめていく。
朝と同じマグに、濃い朝抜けの一杯が差し出された。今度はサリヴァンのぶんはない。
「体調は」
短く問われて、ヴァイオレットは大げさなほど首を振って「元気よ」と応えた。
「腕を出せ」
差し出した腕をテーブルごしに取られ、袖をまくられて脈や体温を測られる。医者のような手つきは、また眠くなりそうだった。
「……まだ熱は下がりきってないな」
「えっ!? あたし熱あるの!? 」
「気づいてなかったのか? おまえ、おとといから昨日の夜までひどい熱が出てたんだ」
「おっ、おとと―――――えっ、ちょっと待って、今日って何日? 」
「おれのほうも熱が下がったのは昨日の朝だから、人のことは言えねえけどな。お互い、それなりに衰弱してたんだ。まあ無理もないけど」
ヴァイオレットは返す言葉も見当たらず、空いた手でお茶をひとくち口にした。マグの湯気の向こうで泳ぐ目に、サリヴァンは気まずげに「あー……」と口火を切る。
「……そうだな。状況を説明しないとな。あれから何があって、どうなったのか。何から話せばいいか……そうだ、これは気づいてたか? 」
サリヴァンは、右手で左手の甲を示すようにつついた。
「え? ……あ! なにこれ! 」
ヴァイオレットはだぶついたシャツの袖をめくる。光の加減で白くキラキラ光る幾何学的な線が、肌の上に見えた。それは蔦が伸びるように手の甲から二の腕へ、そして肩のほうへと続いている。
「入れ墨!? 」
「『杖』だ。おれにも同じものが入ってる。悪いとは思ったが、眠っているあいだにおれが入れた。それは後ろ首を起点に、肩から両腕に入ってる」
ヴァイオレットはまじまじと袖から伸びる自分の腕を見る。手首から顔を上げると、ため息を飲み込んで、真剣な目をした兄の顔があった。
「……ヴァイオレット。おまえが足首に持つ杖は、今回の件においては役立たずだった。おまえは敵の魔術にかかり、体に侵入されたんだ」
「……? 」
サリヴァンは首をかしげる妹の顔を見て、付け足すように続けた。
「えっと……銀の杖には、時空蛇の加護がついている。それは知っているな? 」
「うん」
「そう。その加護には、魔のものを退ける『ちから』がある。正確には跳ね返す『流れ』というか。おまえの持つその『もうひとつの杖』にはそれが付いていなかったんだ。そのせいで、おまえは『悪魔』に操られて―――――ここ銀蛇を襲撃した」
「大丈夫だ」顔色を失くして握り締められた手を、サリヴァンは引き寄せて言う。
「おれを含めた誰にも被害はない。……大丈夫」
「おれが倒れたのは、その前にちょっと頑張りすぎたせいだ。魔法を使いすぎて、ついでに『悪魔』の襲撃をやり過ごすのに体力が尽きて。まあ、おまえと同じ……過労だな。無傷だったし、銀蛇にはおれしかいなかった。レティ、おまえはそのあと酷い熱を出して寝込んだ。でも杖を持たないおまえの身は、万が一を備えてこの店から出すわけにはいかなくなって、おれと一緒にこの店に籠ることになった」
「お兄さまも熱が出てたのに? 」
「おれは、こういう万全じゃない状態でも状況に対応するための訓練を重ねていて、おまえの問題を解決する技術も持っている。肉親でもある。最適だったんだ。さすがに、食材やら日用品やらは外から仕入れてきてもらったがな。その間おれがやったのは、おまえの看病と、これから絶対に『悪魔』に手を出されないために、おまえの体に『杖』を納めるという方法だ」
「この入れ墨が……」
「そうだ。これを入れる施術はおまえ自身の体に影響を与えるし、本来ならきちんと了解を取って、元気なときにしなくちゃいけない。おまえの熱は過労から来るものだったのに、おれの判断でこれを入れることにした。この入れ墨は生涯消えないし、使うには訓練も必要になる。謝らなければいけないのはおれのほうで……」
汗で湿った手を引き寄せたのは、こんどはヴァイオレットのほうだった。
「――――あたしね! 」
新しい入れ墨の入った皮膚は、もうすっかり熱が引いて馴染んでいる。
ヴァイオレットは鼻をすすって喉を整えると言った。
「何年か前、勝手にあなたを訪ねたとき、とてもがっかりさせてしまったと思ったの。愚かな考えなしの妹だって。でもあなたは、あたしに贈り物をくれたよね」
奥歯を噛む兄の顔を見て、ヴァイオレットにはその胸の内がなぜが透けて見えた。
「あたし、すごく嬉しくて。お父さまがくれたほうより大事にしててね。だから、どうしても、捕まったときに『これだけは取り返さないと』って思っちゃったの。伝統あるライト家の杖よりも、お兄さまがくれた杖が、大事で……」
「未熟な子供の手仕事で、おまえの身を危険にさらしたんだ」
「でもそれとあたしの愛着は関係ないわよね! あたしが両方取り返すくらい実力があったら違っていたことでもあるわ。あたしはね、お兄さま。あたしも、あなたに会いに行ったこと、あのときの愚かな自分が、今でも許せない。何も考えずに、あなたを危険にさらして怖がらせた子供のあたしがキライだわ。これって、お互いさまってことでいいわよね、お兄さま」
サリヴァンはそれを、眼鏡の下を拭いながら聞いた。
「あ、あたしっ、ばかだから、それでもねっ、ずっと、あなたに、会いだがっだの……っ」
「……ああ、おれもだよ。会いに来てくれてありがとう」




