8 ポルターガイスト
休止しているあいだに、冒頭の神話ダイジェストをブラッシュアップしています。
サリヴァンは、家を出た日のことを覚えている。
別れの朝、まだ陽が昇らない夜のうちに、母は寝ぼけまなこのヴァイオレットを抱いてサリヴァンに触らせた。
赤子の頬は、赤く熱を持って温かく、まだ小さな兄の手が撫でると迷惑そうに青い目をしょぼしょぼさせた。
両親にうながされて手を振る一歳の女の子は、何もわかっていなかった。
丘の上に小さくなる人影に背を向けて、一心不乱に足を動かした朝のこと。
あの日の星空の下の空気と、母のかさついた手指の感触、さらさらした妹の頬の感触を、サリヴァンはよく覚えていた。
成長した妹の姿は、遠い昔に覚えている、母とよく似ていた。
◇
「……ヴァイオレット、か? 」
自分より縦に長くなった妹を抱き留めて、サリヴァンは奥歯を噛んだ。
「ええそうよ、兄さん」
「ちょっと待て。眼鏡を……顔をよく見せろ」
離れていく体に、そっと息をつく。
ベッドサイドを手繰り、目的のものをそっとポケットに忍ばせた。
眼鏡をかけると、ぼやけていた視界に赤毛の娘があらわれる。
らんらんとした青い瞳は、記憶より暗い色に落ち着いていた。
サリヴァンは額を軽く抑え、次の瞬間、素早くヴァイオレットを床に引き倒した。
短い悲鳴。困惑と動揺が混じる声。
サリヴァンは吐き捨てる。
「……ああ、まったく! 」
悲鳴を上げたいのはサリヴァンも同じだった。
あの雨の中、どうして気が付かなかったのか。気が急いて、見るべきものを見逃した後悔だけが胸にある。
「いつからだ? レティ」
「何? なんのこと!? 兄さん! 」
「分かってるはずだ――――」
落雷のような怒号がほとばしる。
「―――――『杖』がないのはいつからだってンだよッ! 」
ヴァイオレットは、地団駄を踏むように右足の先で床を掻いた。
「どうして? 杖ならちゃんと持ってるわ! 」
蔓草模様の銀のアンクレットが、たしかにそこに巻かれている。
「持ってるのに! ぎゃあッ痛い! 」
「拷問みてえな真似をさせるんじゃあねえ……! 口先でごまかそうが、おれには分かるんだよ! 」
サリヴァンの詰問に、それはついに、フゥ――――ッと息をついた。
「――――何よぉ、それ。キョウダイのキズナってやつゥ? 」
「――――職人が手を動かした作品を、忘れる道理がねエだろうが……! 」
視界の端が赤く染まる。汗がにじむ。
「うふ、」
窓の外に、しらじらとした光源が、こちらを覗き込んでいる。
「うふふ、ふふふふふふ……」
妹の喉が、軽やかに笑った。
「くそがよ……! 」
アルヴィンではない。
フェルヴィンで見た、あの紅の炎でもない。
金の双眸をたたえ、ひとりの人間のかたちをした炎が、窓ごしに立っている。
サリヴァンは手首を返し、『運命の輪』が刻まれた一片の紙をヴァイオレットの背に押し付けた。
「ふぅ―――――…………」
小さな吐息とともに、くたりと力を失った妹の体を引き寄せる。炎の手が、開いたままの窓辺の桟を撫でると、硝子がかすかな悲鳴とともに震えて飴のように砕けた。
「何しに来やがった」
「あなたに興味が湧いたからかなぁ」
ヴァイオレットの瞳が、ぎょろりと動く。
「だから『魔術師』の侵略作戦に便乗したらいけるかな~って、来ちゃった! うふふ! 思ってたよりうまくいっちゃったからびっくり! あなたもお誂え向きに孤立しちゃってるしねェ。ほーんと、あたしって、神に愛されてるわぁ。てーんさいっ! うふふ! 」
「いつから、その体に」
「ふふふ。いつからでしょお? 」
「……わかった。質問を変える。何が望みだ? 」
アリスは笑みを深めた。いたずらを思い出した顔。見慣れたジジのそれと、とてもよく似た顔で――――。
「……興味があったの」
(『キミに興味があるんだよね』)
「エリカ・クロックフォードが最も愛した弟子。娘を託した少年。銀蛇の継承者。――――そして何より、世界に与えられた使命を投げ捨てて、目の前の恋を選んだ『ニンゲン』」
うっとりと、嚙みしめるように、金に光る瞳がサリヴァンを見つめる。
「……その点でいえば、あたしたちって似ているって思わなァ~い? 」
(『ボクらって、似ているのかもね』)
「……望みは」
掠れはじめた声で、サリヴァンは繰り返した。疲労が無視できなくなりはじめていた。
滂沱の汗が流れる。口の中に、塩っぽい鉄の味が広がりつつある。
その頬に、冷たい手が当てられた。
「どうか見ていて。そのお願い」
「見て……? 何を」
「エリカ・クロックフォードの生きざまを。最期の戦いを。あなたの席を用意するから、最前列であなたも戦って」
薄く笑む唇が、祈るような響きで口ずさむ。
「あの子のすべてを受け継ぐのなら、あなたはそこに、いなくちゃいけない。あたしが選んだ語り部は、『あなた』」
「伝えて。覚えていて。忘れないで。そこから逃げないで。――――あたしもそこにいるから。お願いよ。お願い……」
囁き声が消え、いつしか部屋は、暗く冷たさを取り戻していた。
◇
ヴァイオレットは、まぶたを照らす光に目を開けた。
鳥のさえずりと、朝の匂い。見知らぬ誰かのベッドに寝かされている。
寝癖のついた頭を掻き回しながら、昨夜までの記憶を探る。
(……そう、なんか怖い人に喧嘩売って、アルヴィンに止められて、言われて兄さんに会いにいって……えーと、どうしたんだっけ)
太陽ははっきりと確認できる位置にある。誰かの寝室と思われる部屋。家具には触らないようにして、ヴァイオレットはそっと、寝室を出た。
そこには、見覚えのある『銀蛇』の階段脇の廊下が広がっている。
かすかな物音と気配を感じて、ヴァイオレットは廊下の突き当たり、この前は足を踏み入れなかった区画へと進んだ。
整理されているが雑然としているキッチンには、四人掛けのテーブルと椅子がある。使い込まれたオーブンが、静かに調理を進めていた。
「おい。体はもういいのか」
ヴァイオレットの体が跳ね上がる。ちょうど入り口の死角になる位置に藤の長椅子があり、そこに誰かが寝ていたのだった。
同じような寝癖がついた赤毛がのっそりと起き上がり、寝起きの目付きの悪い目が、ヴァイオレットをジロジロと見た。
「お、おはよ、兄さん……」
「……ああ、おはよう。レティ」
兄はなぜだかうつむいて、特大のあくびをしたようだった。
アリスはいくらでも性格が悪くなれるやつ。
魔法使いが魔法使いを捕まえたら、杖を奪わない道理が無い。 →https://ncode.syosetu.com/n2519et/124




