8 煌々
本年もよろしくお願いいたします。
アルヴィンにエリカが言った。
《 あなたは、あなたが望むあなたの姿になれる体を持っている 》
アルヴィンは、兄の腕から跳ね起きて駆けた。
「アルヴィン!? 」
「えーん! 怖い!きらい! へんたいっ! あっちいけー! 」
少女の肩を掴む。肌を焼くことはなかった。
(よし、大丈夫)
腰に腕を回して、膝を抱え、腹ばいにさせて肩にかつぐと、ぱっと踵を返した。
それは音をつけるなら、『スタコラサッサ』だ。
「えっ!? おいぃっ! 」
赤い騎士が驚く声が聞こえる。
「そりゃあ無いだろぉーっ! 」
「うっさいばかーっ! 」
(――――ああ、ミケ、兄さん……! )
アルヴィンの肩の上で、ヴァイオレットはまだ涙声で叫んでいた。
(ずっと忘れていたことを、君が全部言ってくれた)
『怖い』も『嫌い』も、いつしか呑み込んだまま忘れて、ずっと言えなかった言葉だった。
それを、この数秒の出来事で思い出していた。
アルヴィンは、鎧の体でよかったと思った。きっと生身なら、情けない顔で前が濁ってよく見えていなかっただろうから――――。
押し込めて凍り付いたままだった感情が、砕けてこんなにも輝いている。
(ありがとう。ありがとう……! あんなやつより、君のほうがずっとすごい! )
「うわあぁああん! 怖かったあぁああっ! 」
「このバカッ! 戦う力もないくせに立つのは勇気じゃなくて無謀っていうんだからな! 」
たっぷり距離を取ると、どこからともなく現れたジジが、容赦なくヴァイオレットの上に拳を落とした。
「いったぁああいぃいいいっ! ていうかあんた誰よぉ! 」
「覚えてないのかよっ! 今はテメーの兄貴の代理でバカを叱ってやってる優しい大人だよ! この考えなしの死に急ぎバカッ!! 」
「なによっ! 後悔なんてしないわよ! 」
「こっちは子守りしてる暇なんてなーいーのっ! アルヴィン殿下も今すぐ戻って! ただでさえギリギリの戦力なんだから、まったくもう……」
ヴァイオレットの顔に影が落ちる。小さく唇を引き結び、おずおずとジジをうかがった。
「……後悔はしないけど、反省はするわ! 」
ジジは、ふん、と鼻で笑った。
「上等だね。根性だけは認めてあげてもいいぜ妹。アンタ、そんなに元気が余ってんならさ、役目をやるよ」
ヴァイオレットは、大きな目を瞬いた。ジジが伸ばした指で、その胸を突く。
「サリヴァンのところに行ってこい」
ヴァイオレットは息をつめ、ぶるぶると頷いた。
「ひとりでずいぶん無茶してるみたいだから、介抱役に任命する。あんた、銀蛇の場所は分かるだろ? 」
「……わかった! 」
ヴァイオレットが翼を広げ、街の中心に向かって飛んでいく。
すぐに見えなくなった姿を少し長く見つめるアルヴィンの数秒を、ジジが小さく肩をすくめて待つ。
「ほら戻るよ! ホントに状況まずいんだから! 」
返事代わりに、アルヴィンは地面を蹴った。
◇
ヒースが細く息を吐く。猫のように、手指と足が二階窓の僅かな突起にかかり、体を支えている。
「……ジジ、いけるよ」
「できるならやって! 」
ジジが、文字通り口だけで言う。
魔女が口にするのは、その杖の銘であり、最も短い魔術の呪文。
「――――銀蛇! 」
路地の壁に、地面に、そして天に、等間隔の銀の線がほとばしる。
直線と直角はねじれながら交差して巾着を絞るように小さくなっていく。
グウィンが後ろに跳ぶ。シオンは『赤い騎士』の棍棒に打ち据えられたまま、自身の体の形にすり抜けていく銀線のむず痒い感触を感じながら自分の体を再生させていく。
「―――――と、『運命の輪』っ! 」
銀線のドームの上部と下部の描線が、ぐるりと回る。
ヒースが『そうあれかし』と定めた紋を描ききった瞬間に、呼応するように白く輝いた。
騎士は重心を落とし、棍棒を脇に挟んで狭まる檻に対抗しようとした。踵が地面を擦り、巨躯が押し込まれていく。
すかさず地面に伏していたシオンがその脇腹を狙って蹴り込んだ。
意識を割かせたことで、赤い騎士は悔し気に呻きながら、最終的に屍人使いとともに一塊に肩を寄せ合うかたちとなった。
「アイデアはあっても、実現は難しいな」
ヒースは荒く白い息を吐き、汗に濡れた厳しい顔で零した。
「実現できるだけ十分だろ」
と、ジジの口だけが返す。
「エネルギー量を持ってても、サリーはこれほど繊細な杖の操作と制御はできないよ。杖をこうも細く伸ばして、絵が描けて、味方と自分以外を選り分けながら、強度を保つ……なんてこと、できるほうがおかしい。キミの仕事は量と質の両立だね」
「褒めてくれてありがと。でもね、時間がかかるわりに長くはもたないよ。屍人に効いてた『運命の輪』が、ぜんぜん効いてないのもまずい。……見なよ。冷や汗ひとつかいてない」
屍人使いは石像のように。騎士は不敵にほくそ笑んでいる。
「……捕まえたもん勝ちさ。あとは向こうに放り込んでからだ」
体がひとまわり小さくなったシオンが、おっくうそうに立ち上がってやってきた。
「おーけーおーけー。……じゃ、これを誰が運ぶ? 」
◇
朝霧の中を赤い鷹が飛ぶ。
(……静かになった)
裏路地から響いていた地響きにも似た戦闘音が静かになった。
朝陽に照らされ、息をひそめていた街が、やっと呼吸をはじめていく。
ヴァイオレットはスルリと変身を解きながら二本の脚で地面へと着地した。鍵の開いた暗い店内に、おそるおそる踏み入れる。
胸に冷たい風が吹いた。
「……サリヴァン? 」
夜風の入り込んだ冷たい部屋を進み、一階にある高い棚の間や、応接間をひととおりぐるりと回って、裏口から中庭へと飛び出した。
「どこにいるの? 聞こえたら返事をして! ――――兄さん! 」
故郷にあったものと同じ井戸がある。これだわ、と意を決して両足を下にぶらさげたときだった。
「……うるさいぞー」
ずいぶん上のほうから掠れた声がした。
三角屋根の一番上にある丸窓が開き、朝陽に目を糸のようにした顔がのぞいている。
「リサか? こんな時間に近所迷惑だろ。 おまえ、こんなところにいるなんて兄貴はどうしたんだ」
「兄さん。あたし、リサじゃないわ」
中庭にはまだ影が差している。そして彼は、眼鏡をかけていない。不思議そうに、というよりも警戒と煩わしさの混じった雰囲気で首をかしげる彼に、ヴァイオレットは腕を広げて井戸の淵を蹴った。
真正面にあるサリヴァンの目が大きく見開かれる。
「――――あたしの兄貴なら、ここにいるじゃない! 」
翼の羽ばたきでヴァイオレットの羽毛と同じ赤毛がはためき、飛び込んだ体をその腕が抱き留めた。




