1 レイバーン・アトラス
ミケ
語り部の中で一番遅く目覚めた末っ子。主と同じ十四歳。生まれてこのかたアルヴィン・アトラスだけが推し。
※最後に挿絵あります。
アルヴィンは胎児のように、水のように満たされた闇の中で、体を丸めてうずくまっている。
頭の中では稲光に似た後悔と思い出が交互に光っては消えていく。
あたりは一切の静寂で、冷たくも温かくもなかった。自分にまだ手足が生えているのかすらも分からない。
しかし、アルヴィンにはまだ意識があった。感情があった。後悔があった。
自分が死んでしまったことが分かっていた。
自分は十四年、何を成したというのだろう。何も出来なかった。兄たちの足手まといだったこと、ミケが自身を犠牲に生かそうとしてくれたものを台無しにしてしまったことが、悔しくてたまらなかった。
――――アルヴィン・アトラス。
そんな幼い皇子に、優しげな声が語りかける。
――――貴方の意思は、まだそこにある。
その言葉に、アルヴィンは弾かれるように顔を上げた。
とつぜんアルヴィンの視界が開ける。
そこはあまりに広大な、天地の境の無い、無数の光の粒が浮かぶ世界だった。
こんな星空は、世界中どこにも無いだろう。こんなふうに吸い込まれそうな、あらゆるものを飲み干しそうな星空が、この世にあるはずがない。
星屑の中に埋もれるように、その黒い影はアルヴィンの前に立っている。前を向いているのか、それとも背を向けているのかも分からない。
――――魔法はまだ、貴方の中にある。
アルヴィンに宿る魔法といえば、ひとつしかない。
ミケは生きているのか、とアルヴィンは問うた。
――――魔法はまだ、その役目を終えていない。
それだけのことだ。と影は言う。
影の視線がこちらを貫いた気がして、アルヴィンは自らの姿を顧みた。銅板の切れ端を握りしめた自分の手が見えた。その下に、薄っぺらい胴と足が伸びている。
銅板を握る掌が汗ばみ、体の感触はあるのに、意識だけが離れて頭上を漂っているような、肉体と意識が逆転して、意識が肉体を着ているような、おかしな感覚だった。
ここはどこですか、と問うた。影は応えなかったので、次に貴方は誰ですか、と質問を変えた。
――――私は『宇宙』のさだめもつもの。かつて、貴方に導かれたもの。そしてこれから貴方を導くもの。
「僕は……誰も導いてなんかいない。僕には何も成せなかった」
アルヴィンは大きく首を振る。
鈍痛を伴う物体が体の内側にあり、風船のように膨らんで押し出された涙がポロポロと零れ出た。
「僕は、何もできなかったんだ……」
―――――いいえ。
―――――貴方は導く者。そのさだめ持つもの。
――――星を目指すのです。
影は虚空を指差した。
アルヴィンは指の先を見渡し、「どの星ですか」と尋ねた。
――――まだ貴方には見つけられない星。貴方が正しくあろうとすれば、きっとたどり着ける場所。貴方はそこを目指すのです。
「僕にできると思いますか。何も出来なかった、こんな僕に」
――――貴方は全てを一度無くしている。健やかな故郷、頭蓋骨、語り部、勇気、そして命……。
――――だから貴方は、それらを取り戻しながら旅をしなければならない。
――――それは困難を極めることでしょう。最初の候補である貴方が眠りにつけば、『審判』は次の者を選ぶだけ。ここで足を止めるのも悪い事ではない。
「僕が……最初に選ばれた? 」
―――――何を驚くことが? 貴方は選ばれ続けている。貴方が知らなかっただけ。
―――――貴方の望みはまだ叶う。
アルヴィンは自分の胸をかき抱いて、その鼓動が止まっていることに今更気が付いた。
「……悪魔のささやきみたいだ」
――――貴方はどうしたい?
「選ばれたい! 何も無いまま死にたくないよ……! 意味が欲しい! 求められたい! 」
――――貴方が失ったものは数多い。どんな姿であろうとも、貴方は戻りますか?
「どんな無様な姿になっても、役立たずよりずっとましだ! 」
――――いいでしょう。欲望も、また意思。世界にとって大切なのは、感情よりも何を成すかということ。
腕を広げて影がアルヴィンに歩みよる。きつく抱きしめられたその腕は、アルヴィンよりも華奢で、古い紙とインク、微かな金臭さが混じった匂いがした。
「我が名は『宇宙』……神の審判を見届けるもの。貴方を導くもの。貴方の旅路を記すもの。今、私は貴方と一つとなり、果てるまで添い遂げましょう」
脳を揺らすその声に、アルヴィンは大きく目を見開く。
影……『宇宙』の輪郭が燃え上がり、その顔を明々と照らしだした。
その体はひと塊の真紅の炎となり、アルヴィンを包む。熱を持たない炎はアルヴィンの肌を焼かなかったが、その手に握られた銅板を溶かした。
「……あ、ああ……」
柔らかな金属液は、アルヴィンの掌の中で形を変え、その先端を慰撫するように頬へ伸ばす。
「―――――あぁぁぁぁ……」
「今、この時から、貴方は地上から解き放たれる。貴方にとって天は地と同じ。夜は母であり、月は友。星は見えずとも、必ず貴方の上にある」
目の前が灼熱の『黒』に焼き焦げていく。
「ぁぁあアアア……アアァァァアアアアアアアアアアアアアアア―――――ッッ!!!!!!!」
――――さあ行くのです! 目覚めなさい! 私のしるべ……私の希望……! 『星』を継ぐものよ!!!
閉じた目蓋の裏にあるのはもはや闇ではない。あの美しい星空だ。
その星空が、黄金の燐火の粒の一つとなって遠ざかった。奈落を過ぎ去り、燃え盛る青い炎が見える。それは蘇った魂たちであり、変わり果てた現世だった。
真紅の炎はアルヴィンを乗せ、冥府の炎の膜を突き破りながら巻き上がる。立ち込める黒雲がずいぶん近くに見える。眼下に、故郷の城の屋根が見えた。
顔に、頭に、焼け付くような熱を感じる。首の皮膚が焦げる臭いがする。
ちっぽけな体のちっぽけな拳を、溶けた金属が肉を焼き焦がしながら飲み込んでいく。
頭蓋骨の無い頭には鼻が無く、十字に奔る亀裂、ぎざぎざの断面の奥に、刃金色にぎらつく双眼が剥き出しに濡れ揺れている。吐いた呼気が蒸気となり、夜明け前のフェルヴィンの真っ黒な空に白く霞んで消えた。
青い火の子を流星のように纏い、冥府の青白い馬に跨ったジーンが、アルヴィンの顔を笑みに歪ませて言った。
「頭蓋骨の代わりに語り部の亡骸を溶かして貼り付けたか? 」
アルヴィンの肉体を焼く音と、軋みを上げる駆動音が混ざり合い、ぎちぎちと不快な金属音が、虚空に大きく響いている。衣服はほとんどが焼け落ち、身体をまとうのは奇怪にして醜悪な灼銅の鎧のみ。
相対するジーンのまとう死に装束の、白い衣裳の裾がなびく。
「それではまるで、獣じゃあないか……」
くつくつとジーンは笑う。
「いいだろう……! おもしろい! それでこそアトラスの青い血に連なるものだ。おおいに生き汚く生きろ! そして俺を打ち滅ぼし英雄となれ! そのために戻って来たのだろう!? 」
雲の向こうで金色の太陽が昇る。黒雲のあわいから糸のように光が伸び、街に暁の金粉を塗す。
「ジーン・アトラスは死んだ! この身はいまや悪霊となって蘇った! 俺は第一の封印『白』の乗り手! 救国の英雄となれ! アルヴィン・アトラス――――ッ! 」
アルヴィンの中で、取り戻せと声が叫ぶ。木霊する。
「ァァァ……ァアーアーアアァア――――アアアアア――――……イィィィ」
――――ィイイイィギィィイイイ――――――――ヤアァアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッッ
夜明けの空に、アルヴィン・アトラスは高い高い咆哮を上げた。その日の朝は、今までのどんな日とも、まったく違う朝となった。