会いたい人
今日はいつもより気分が良かったので、何となく散歩をする事にした。
陽射しがまだ肌に刺さるように強そうだけれど、お気に入りの麻の日傘が見当たらなくて、仕方なくそのまま外に出る。
潮の香りが強い下り坂の、海に続く道には何故か行く気がしない。
陽炎のように揺らめいて見える上り坂の方を歩いてみた。
しばらく外に出ない間に景色が変わってしまったような。
坂道に沿って並んでいた古い町家は姿を消して、随分見通しが良くなった。
蔦に覆われていた古い洋館があった場所には、白い紫陽花のような花を咲かせた糊空木が、一面に広がっている。
──あの・・・。
誰かに声を掛けられた気がして辺りを見回すと。
私よりは幾分、歳が下に見える青年が糊空木の傍に佇んでいた。
青年の着ている白いシャツが花の白と融け合っているかのよう。
──あの絵のモデルの方ですよね?日傘を差した紺のワンピースの──
彼が手を伸ばしてこちらに近付いて来る。
私は何だか怖くなって、後に退いてしまった。
──あ、ごめんなさい!いきなりすみませんでした。
青年があまりに丁寧に謝罪するので「いいえ、こちらこそ」と私もお辞儀をする。
──僕の声が聞こえるんですね?
「え・・・ええ、もちろん聞こえているわ」
青年は頬を珊瑚色に赤らめて、少年のように笑った。
──これから坂の上にある、自分の家に帰るところです。貴女も絵を見に来て頂けませんか?
あまりに急な申し出。
いつもの私なら丁重にお断りをして、その場を速やかに去るはずなのに。
不思議と警戒心は無くなっていた。
この青年の纏う穏やかな空気に触れて、何だかその絵も気になったので、彼の後を付いて行く事にした。
「普段の私だったら、こんな強い陽射しの中で、それも坂道なんて歩いていたら倒れているわね」
──身体があまり丈夫じゃないのですね。
「そうね。病気ばかりして、いつもは部屋に閉じこもったまま・・・。でも今日はとても気分がいいの」
本当に、上りの坂道を歩いているというのに苦しくはないし足も疲れない。 陽射しの強さも気にならない。
青年がずっと私の方を嬉しそうに眺めているのを感じながら、坂の上にある彼の家に辿り着いた。
思ったよりも敷地が広くて、手入れの行き届いた庭園に大きなお屋敷。
出会ったばかりの人間が立ち入るには戸惑ってしまう。
青年に入って下さいと促され、私はお邪魔しますと萎縮しながら、お屋敷の玄関まで歩みを進めた。
──これです、この絵です。
顔を上げると虚飾のない額に縁取られた、大きな油絵が飾られていた。
──画廊を経営していた祖父が手に入れたものなんです。
青年の言う通り、カンヴァスには日傘を差した女性が描かれている。
──僕がこの絵を初めて見た時は中学生でしたが、いつの間にかここに描かれている女性に恋をしてしまった。
私がいま着ているものに似た、濃い藍色のワンピース。
私の好きな淡い黄蘗色の日傘。
青みがかった白い肌の色、闇のように深い漆黒の長い髪。
切なそうに、でも愛おしげにこちらを、絵を描くその人見つめている・・・。
カンヴァスの右下には、この絵を描いたと思われる画家のサイン。
それを目にした時、私はあっと声を上げた。
頭の中で、靄の掛かっていた記憶が、徐々に鮮明になっていく。
──だから坂道で貴女を見つけた時、絵の女性が僕のために会いに来てくれたのだと思った。
この絵の女性は私だ。
日傘を差した私はまるで絵画から抜け出たようだと、あの人は言っていた。
もう一度絵に戻したいと頼まれて、私は恥ずかしかったけれどモデルを引き受けた。
カンヴァスと向かい合うあの人の真剣な眼差し、ふっと顔を上げた時の、私を見つめる優しい表情。帆布に色をのせた後の柔らかな筆使いも、周りの色が融け合って、あの人の創る世界が広がっていく感覚も覚えている。
──でも貴女が会いたい人は、この絵を描いた画家の彼だった。貴女の恋人だったのですね?
私はこくりと頷く。
ぽたぽたと雫が目から流れ落ちて、自分が泣いている事に気付いた。
「彼は居なくなってしまったの。私が彼を傷つけたから。両親に結婚を反対されて、私は彼を選べなかった」
──彼に会いに、何かを伝えに此処に来たのですね?
「辛い思いをさせてしまってごめんなさい、私を愛してくれてありがとう。それだけでも伝えたかったの・・・」
──大丈夫、彼には伝わっていますよ。
油絵を前に崩れ落ちそうな私の身体を、青年が支えてくれた
・・・かのように見えた。
青年の手は私の身体に触れる事は出来ずに、すり抜けていく。
「貴女は彼への想いが強すぎて、今まで気が付かなかったのですね。自分が亡くなった事に。この世の者では無い事に」
・・・青年の言葉に私は特に驚きはしなかった。
私の絵を描いてくれたあの人を思い出したのと一緒に、大きな地震の後に襲ってきた、鉛色の波に飲み込まれる自分の姿も思い出したから。
──身体の弱い私は、地震が来たあの日も病気で寝込んでいた。家族も誰もいなくて、外へ逃げ出す事も出来ずにベッドの中で震えているだけだった。あっという間に家が水浸しになって、私は波に流されて・・・そして死んでしまったのね。
青年は黙って頷いた。
──彼は・・・無事だったのかしら?
「はい。あの地震が起こった時、彼は個展の打ち合わせでこの家に訪れていましたから。津波はこの坂の上までは届かなかったのです。僕の家族と一緒に、2階のベランダから津波に飲み込まれていく坂の下の様子を見つめていました」
ゆっくりと、青年は当時の状況を伝えてくれた。
「画家の彼はあの流されていく家の中に大切な人がいると、ベランダから飛び出そうとした所を祖父たちに止められて。貴女の名前を何度も叫びながら、泣き崩れていました」
私は手で顔を覆って泣いた。
「今はいいお相手と巡り会って、時々絵も描いて、幸せに暮らしているそうです」
あの人に会えなくてもいい。
私の最期に涙を流してくれて、そして今、幸せでいるならば充分だった──。
やがて私の足元から、すーっと1本の道が伸びた。
どこまで続いているのか、その先は見えない。
けれど、この道を歩いて辿り着いた先はきっと・・・。
──さよなら、色々とありがとう。
青年に別れを告げて、私はその道を歩き始めた。
「また此処に来て頂けますか?今度は僕に会うために」
私はその問いには答えず、にっこりと微笑む。
青年の頬がまた珊瑚のように赤くなって、嬉しそうに手を振るのが見えた。
【 会いたい人 】〜終〜