乗り気じゃない誘い(民子)
よろしくお願いします。
1993年10月、A市立看護大学に入学してからはや一年半が経っていた。
開校年次に入ったので上級生はいない。一学年八十人が定員なので、二年生次となった今でもキャンパス内に学生は百六十人しかいない。
A市が鳴り物入りで建設した充実した設備と新築の匂いが残る近代的建物は、この先半世紀は続くであろう学び舎の第一期生であることに誇りすら感じさせる。
しかし、胸躍るはずだったここまでのキャンパスライフは完全に大誤算であった。一言で表せば覚えることが多すぎるのだ。地域基礎看護学に始まり、機能看護学、育成看護学等多岐に渡る学問は、日進月歩の医療分野の一端を担うべく看護師というエキスパートを生み出すための国策だからだ。
「人の生命の役に立つ」という普遍的命題が課せられた看護師という職業は、高齢化社会の中でとてつもなく責任が重く、肉体的にも精神的にもきつい。
何故こんな進路を選択してしまったのか?家業が医者だという理由で安易に決めてしまったのが恨めしい。もちろんここで数学の二次方程式の解の公式など何の役にも立たない。巷でささやかれる「花の女子大生」という響きを自分は完全に誤解していた。あるいはここだけが次元の違う異界なのかも知れない。
髪もショートカットにした。いちいちまとめ上げるのも面倒くさい。長い髪は実習の邪魔になるのだ。
夏休み明けの10月初旬、クラスメイトの松田冴子が甘ったるい声で話し掛けてきた。
「ねえタミン、今週の金曜、合コンに付き合ってくれないィ?敦子が急にキャンセルしてきたのでメンバーが一人足らないのよォ」
「私には関係無いことだね。それに無理に数合わせしなくてもいいじゃん」つっけんどんに返してやった。
「ん、もうゥ、友達なんだから協力してくれたっていいじゃないィ。私が高校の同級生に頼まれたんだから恥を搔きたくないのよォ」
知ったことか。お前が恥を掻こうと私には一切関係無い。だいたいこいつを友達だなんて思ったことは一度も無い。
この巻き髪の女は入学早々同じ医者の娘だとわかり、何かとなれなれしくまとわりついてくるのだ。ただし向こうは三代続く総合病院の娘で、こちらは父の代で開業したチンケな町医者なのだ。経済環境など月と土星並みに開きがある。
通学に使っている車も私でさえ中古のスターレットなのに、いきなり新車のアウディで乗り込みやがった。いびる先輩もいないこの環境下、お嬢様フェロモン全開で浮きまくっている。それでも金に糸目をつけない気前の良さは取り巻きを生み出し、学内で一目置かれる存在になっているのも事実だ。
面倒くさいが、ここで切り上げるとあとがくどくなる。こいつはあきらめることを知らないので、もう少し相手を続けてやることにした。どうせ小さい頃から欲しい物は全て手に入れてきたのだろう。他人に迷惑を掛けているという感覚が抜け落ちてるのかも知れない。
「じゃあ一応聞くけど、相手は何処の学校なの?」
「愛和学院よォ。テニス同好会の人たちなのォ。私ィ、高校の時テニス部だったからァ、当時の男子部員と今でも交流があるのよォ」
よりによって学院かよ。裕紀が通ってるバカ大学だ。いや、これは学院の学生に失礼な発想だ。私が裕紀のイメージをそのまま大学に被せてしまっているだけだ。
しょうがないだろう。かつてあいつは学力アップのために血液を入れ替えようとしたバカなんだぞ!
「悪いけど、学院じゃ乗り気になれないなあ。他を当たってよ」
「待ってェ!タミン!もう他の方には当たりつくしたしィ、カッコイイ人も来るそうよォ。あなたと同じ西徳出身の方もいるそうだしィ、名前までは存じ上げてないけどォ」
ゲッ、マジかよ。学院はここと違って、マンモスとは言わないまでもインドゾウくらいの規模はある大学だ。学生数は一万人を若干超えている。
西徳出身者も数多く、自分たちの同窓生でも二十人近く進学したはずだ。まさか?という思いと再会してみたい思いが交錯する。人はこれを魔が差すと言うのだろうか?
「わかった。行ってもいいよ。ただし一次会だけだからね」
言った角から後悔が始まっているのが自分でもわかった……。
金曜の夕方、岐阜駅近くの洋風居酒屋へはバスで向かった。駅前の広場で冴子と落ち合った。
このバカ女は全身ピンクハウスのフリフリファッションを纏っていた。こっちは白地にストライプの入ったブラウスにネイビーのタイトスカート、五センチのピンヒールのパンプスでOL姉ちゃん風の出で立ちだ。父親から誕生日にプレゼントされたプラダのショルダーバッグも掛けて来た。
ロレックスのヨットマスターを手に巻いた冴子は、私のプラダをあざ笑うかのようにエルメスのボルドーカラーのバーキンを持っている。さすがに驚いた。いくら何でも学生にバーキンはないだろう。経済格差はさらに乖離して地球と冥王星並みになったようだ。
直ぐに他のメンバーと合流し、五人でゾロゾロと店に向かった。気のせいかすれ違う帰宅途中のOLは、冴子のバーキンを見てギョッとしているようだった。
店の前に差し掛かると五人の小汚い男どもが待ちわびたように立っていた。中背の男が冴子を見つけて大きく手を振る。
「冴ちゃーん、この店だよー」
「高橋くゥーん、お待たせェ!ちょっと遅れちゃったみたいでゴメンネェ」
遠目から男たちを見た瞬間、私の淡い期待は砕け散っていた。同時に中背の高橋とやらの背後から、長身の男が私に手を振った。裕紀はチャラ男になっていた……。
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