最後の夏(裕紀)
よろしくお願いします。
1991年7月の第三土曜日、俺は全国高等学校野球選手権岐阜大会の開幕を迎えていた。高校生活最後の夏、開幕試合は三回裏を終わって2対0で佐原高にリードされている。
西徳高校の先発ピッチャーは背番号1の俺だ。弱小公立の我が校貧打線は相変わらず強豪私学の二年生控ピッチャーを打てない。ここまで四番に座るキャプテンのアタルへの四球でしかランナーを出せていないのだ。
四回表に一死満塁のピンチを迎えたが、スライダーを打たせ前進守備のアタルへの強いサードゴロで⑤―②―③のゲッツーを成立させた。
「裕紀、奮闘してるじゃない。スライダー、マジ切れてるよ。守ってても断然リズムがいいもん」
「ああ、今日は高校生活で最高に調子いい!だから打て!あの二年坊主を打ち崩してくれ!」
「任せてよ」
アタルは柔らかな笑顔を見せてくれた。
四回裏もアッサリとツーアウトになり、四番バッターのアタルが右打席に入るのを見つめる。初球のスライダーだった。サウスポーが投げたインコースの縦スラはイマイチ沈み込まなかったが、失投といえる類ではなかったはずだ。
アタルはうまく腕を折り畳んでボールを真っ芯で捉え、バットをすくい上げ気味に振り切って見せた。快音を残した打球は放物線を描いてレフトポールに当たりグラウンドに跳ね返って来た。
一瞬の静寂のあと三塁側スタンドは狂喜乱舞だ。やった!2対1だ!マウンドの二年坊主が唖然としている。
マウンドに佐原内野陣が集まり、三年生キャッチャーは落ち着かせようとピッチャーの肩をなだめるように擦っているが、付け焼刃では二年坊主の動揺は収まらない。
連続四球とワイルドピッチでツーアウト二塁三塁のチャンスをくれる。ここで七番の二年生堀部をバッターボックスに送った。この後輩は西徳では珍しく中学までリトルリーグでプレイし、学力でも学年トップ10を維持してるらしい。
西徳一の頭脳派バッターを迎えたところで勝負どころと見たらしく、佐原はピッチャーを変えて来た。
強豪校ご自慢の三年生エースの登場だ。スリークォーター気味のサウスポーが投げるストレートはマックス140キロ台中盤で、セカンドベース上から見ても速さが違う。球威が違う。
プレイが再開した。一球目ストレート。二球目スライダー。いずれも見逃してノーボールツーストライクだ。三球目はわざと外角に大きく外してきた。きっと四球目に勝負に来る。堀部は当然ストレートのタイミングで待つだろう。
来たのは右打者の膝元へ落ちて来るブレーキの掛かった縦スラだった。膝を崩して懸命に当てに行き白球は微かにバットを擦ったが、無情にもキャッチャーミットに収まった。
五回表、セカンドランナーから直にマウンドに戻ったためか制球が乱れ始め、連続死球に牽制悪送球でノーアウト二塁三塁にしてしまった。この絶対的ピンチに内野陣は前進守備のバックホーム体制を指示された。
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