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悪戦苦闘

「うっ、おえ」


俺は不覚にも、えづいてしまった。

その理由はあれだ。

うんこだ。

うんこの香り。

それが脱衣所に充満している。

また吐き気に襲われた。

手で口を抑えたいが、両手で入居者様を抑えているので、それが出来ない。


「大丈夫か?」


宇都宮さんが何食わぬ顔で、入居者様の便が付いたお尻をオムツで拭きながら聞いてきた。

何だ!?

何なんだよ、この人!?

何でこの臭いを嗅ぎながら、平然としていられるんだ!?

俺は不思議でならない。今この脱衣所は公衆便所と同じ臭いが充満している。それなのに、何故この男は平然と作業していられるんだ?

平気なのか……

しかも親でもない、赤の他人の便の処理をしているのに嫌がる顔一つしていない。


「いえ、大丈夫ではないです。うぅうう」


ようやく宇都宮さんに吐き気を我慢しながら、必死に答える。

俺の瞳は涙目になっていた。迫り来る吐き気に耐えながらなので仕方のない話だ。


「まぁ、そのうち慣れるよ。初めはみんな、ここでそうなるから。無理な人には無理な臭いだからね」


宇都宮さんが笑って言った。

どうやら俺はその無理な人種のほうです。

助けてください。

俺には介護なんて無理です。

この臭いに耐えられそうにありません。

頭の中でぐるぐると無理という言葉が回転し始める。


「はい……」


ようやく、お風呂に入る前の摘便が終了した。摘便とは、便を排出するのを促す行為である。

俺はすぐに綺麗な酸素を取り込もうとする。

あぁ……ようやく綺麗な空気が。

砂漠で水を求めるかのように、俺は綺麗な酸素を必死になって吸い込んだ。

何か本当に散々だ。

このやるせない気持ちを小説に利用出来ないかな。

うまくやれば、特殊な臭いを発する敵が相手の時に利用できるかもしれない。

でもあまりに主人公がえづいたり、臭いでダメージを負ったりしているところがあると、

あまり格好良くはないけど。

頭の片隅でそんなことを考えながら、俺は風呂介助を開始した。


「おつかれさん。今日、介護の初日だったんだって?」


ぐったりと疲弊している俺に向かって、秀先輩がスカイプで聞いてくる。


「んだっす。何か思った以上にハードな感じで」


ゆっくりとした口調で答える。


「お前、確か昨日までは楽勝っす、頭を使わない、体力だけの仕事なんて楽勝ですよって言ってたよな?」


呆れた口調で先輩は聞いてくる。

やる前まで楽勝だと本気で思っていたんだけどなぁ。

でもそれは自分の頭の中でのあくまでの予想での話だった。


「言ってたっすけど、自分の予想以上でした」


俺は思い出すように言った。未だに臭いが残っているのかもしれない。


高校時代。文芸部に所属していた。その時にシュウ先輩とは知り合った。秀先輩とは、よく小説について語り合っていた仲だ。小説についての知識量、ボキャブラリーの豊富さはその頃から際立っていた。

だから自分はその頃から時々、小説を書くに当たり、秀先輩からアドバイスをいただいていた。十数年間経過した今でも先輩とは繋がっている。秀先輩は高校を卒業してから、東京の大学に入り、卒業後にそのまま就職した。なので今はスカイプを利用して連絡をしている。

ズバズバと悪いところを、具体的に指摘してくれるので、こちらとしては非常に助かる。


「お前は小説だけではないが、物事を簡単に考えすぎだ。もっと思慮深く行動しろよ」


先輩の指摘はごもっともだ。

自分自身もそう思う。いつも貴方がいうことは正しく聞こえる。


「ですね。もっと思慮深く行動します。確認は複数回するとか」

「あぁ、そのほうがええ。間違えるより、ずっといいからな。でどうだったのよ? 仕事内容は?」


よくよく考える。

パッと頭に浮かんできたのはあの苦い記憶だった。

今もあのほがらかな香りが、脱衣所に充満していたらと想像すると、気持ち悪くなってくる。


「風呂介助とオムツ替えでした」


俺は思い出しながら言葉を選んで答える。


「そうか、これから続けてやっていけそうか?」


先輩の質問に俺は一瞬口ごもってしまった。


「どうした?」


先輩が聞いてくる。


「わからないです。正直、今日嗅いだ、あの臭いの中で仕事はやっていけません」


正直に答えた。


「あの臭い? あぁ糞か? はっはっはっはっは。そりゃそうだろ。俺だって糞の臭いの中で仕事するのは嫌だ」


先輩が笑って答えた。


「宇都宮さん曰く、慣れるまでの辛抱らしいすけど。でもあの臭いって慣れるんですかね?」


俺は疑問に思ったので聞いてみた。


「分からん。俺はその宇都宮さんではないからな。まぁ、慣れというのは実際あるとは思うがな」


先輩はそう言い、軽く欠伸をした。眠そうだ。


「では本日も申し訳ないですが送りますね」


俺はそう言うと、自分が書いた小説を先輩にテキストで送る。いつもと同じ流れだ。

ここから先輩の厳しいチェックが入る。

俺が書いた小説の内容についての指摘である。俺はその指摘された部分を確認して、直しの工程に進む。

数分後……。


「うーん、おもしろくないなぁ。それにいつものその道徳的なもの、なんとかならんのか。はっきりいっていらねぇよ。そんなお前の考えなんて」


いつも指摘されているところだ。まだ直っていなかったか。気をつけて書いてはいるが、まだまだ注意が足らないらしい。

ちくしょう。

またいつもと同じようなところで間違えてしまった。


「うーん、やっぱ微妙だなぁ。おかしいところが多々ある」


先輩もほとほと困っているだろう。

こんなに間違いがあるなんて、予想していなかったはずだ。十年の集大成はいつでるのか。俺も先輩もその集大成の結果を、今か今かと待ち望んではいるが、未だに見れていない。

一体俺の身体のどこに隠れてやがるんだ。

頼むから頼むから、そろそろ出てきておくれ。

そろそろいいだろ。出し惜しみしている時間はとうに過ぎている。


「ふぅ、まぁ仕方ないだろ。仕事も新しくなって、慣れないし」


先輩の声に落胆の感情がにじみ出ている。

ごめんなさい。いつまでも不出来な弟子で。


「もっと、注意深く書いてみるっす。まずは凡ミスから直してみます」


俺はそう言い、早速直しにとりかかった。

その時、スカイプで着信が入った。

ヒカルからだった。輝は高校の同級生で本好きである。おもにラノベ専門になるが、今、自分が書いているのがラノベなので彼の意見も先輩と同じように参考意見として聞いているのだ。

先輩から指摘をうけたのだから、内容は微妙だということは分かっている。あとはラノベ好きな彼がどう捉えてくれるかだ。


「早速だけど、読んでくれ。お願いします」


輝に小説のデータを送る。


「分かった。秀さんおつかれさまです」

「おつかれさん」


輝はそういうと俺の小説を読み始めたようだ。

輝の感想を聞くまで、俺は最近の執筆活動について悩んでいた。どうしてもいい感じに執筆ができない。気持ちよく書けないのだ。

完全にスランプだな。

まだ小説家でもないのに、二人にバレないように、スランプ宣言をする俺。スランプという言葉にかこつけて、出来ないことを正当化しているだけだ。情けない話だ。こんなことをしている限り前には進めない。


「うん、読み終わったよ」


輝が読み終わった。感想を聞いてみる。


「意味不明なところが複数、あとはあの道徳的な考えなんていらないよ。見ているだけで億劫だし、読む気も失せるし」


もはやズタボロの感想だった。いいところも何もないような状態だ。

少しくらい何か、いいようなところはないのかな、二人共?

俺は二人からの言葉を待つ。

だが一向にいいところを言い始める気配はない。いつもなら秀先輩がフォロー的な意味合いで何かしら言うのだが。今日はそんな言葉すらない。本当に褒めるところすらないってことか……

心の中で、重いため息を付いた。心の中なら、誰にも聞かれずに済む。


「直しだな。こりゃ、ほぼ全変えくらいの出来事を考えてこないといけない。やれるか?」


先輩が聞いてきた。先輩の話はもっともだ。

現状の書いてある部分の直しだけなら、今からでも比較的労せず書けるだろう。


「やるっす」


俺はすぐに返事を返した。そしてすぐに直しに入る。直しに入ると、自分の書いた小説と向かい合う形となる。

少し時間を置いてから、自分の作品を落ち着いて見ると、自分の作品の悪い点が見えてくる。それを発見して、直していくのが直しだ。落ちついて見ると、自分でもおかしい点がわかってくる。特に毎回酷いのが誤字脱字だ。これは、毎回のようにチェックしたほうがいい。あとは先輩と輝に指摘された箇所だ。

こっちはすぐに直りそうにない。

にしても本当に面白くないなぁ。

全く面白くない。

今更ながら、読んでみて、そう感じてしまう。

書いているときはそうは感じなかったのが嘘みたいだ。

自分に酔っている。

書いているときは、自分に酔っているのだ。

それでその時は、気が付かないとでも言うのか。

情けない。

自分の侵した間違いくらい、自分で発見しなければならない。

彼らが指摘するところは一般的な人が読んでも気になる部分だ。別にコアで特別な難しさは求めていない。

そこにさえ、気がついていないんだけど。

仕事に関しても、本業である小説に関してもうまくいかない。どうしたらうまく回り始めるんだろう。自分次第ということは分かっているのだが、気持ちがついていかない。目先のことしか考えられない。

何でだろう? 何を気にしているんだ?

小説家になるんだろうに。

なるために十年間も頑張ってきたんじゃないのか?

それとも口だけなのか?

いつものようにただやったけど、辞めどきが判断出来なくて、それで今の今までやってきたのか?

能力がないんだよ。能力がさ。

前の職場でも能力がないから飛ばされただろう。同じことだよ。出来やしない。

小説を書くに当たっての才能も文才もない。

それを考える頭の能力が足らないんだ。

またやめちまえばいい。そして今の仕事と同じで、何も頭で考えずに出来る何かをやればいい。

お前には無理だ。小説家なんてなれっこない。

お前より、優秀な人材がはたくさんいる。そいつらに小説家は任せればいいだろ?

お前は自分の能力や身分に見合ったことをしていればいいさ。

難しいことは何もない。楽だぞ、無理もしなくてもいいし。

自分の好きなようにできるしな。

何をそんなに意固地になってる。

面倒くさいことなんてバイバイすればいいだろ?

こっちに来い。お前はこっち側の人間だ。

声が聞こえる。自分の心の中に潜んでいる悪魔の声だ。

この声に従えば、確かに楽だ。

しかし、それで果たしていいのであろうか?

何も労せず、これからの人生を暮らしていくのもいいかもしれない。

非常にそれは楽なことだし、生きやすい。

大衆の中の一人に戻るということだ。

そして誰でも出来る仕事を淡々とこなしていく。悪いことじゃない。

でもいいのか、それで?

そんな人生の生き方で?

つまらなくないか?

自分にしかできない何かをしたいとは思わないか?

俺はつまらない生き方で満足したくない。

俺は嫌だね、絶対に。




 ようやく仕事に慣れてきた。

慣れてきたと言っても、仕事内容の大まかな内容を把握したということで、一人でこなせるかと言われたら、疑問が残る。それでも少しずつだが、この介護という仕事に慣れてきたのかもしれない。いや慣れたくて慣れたわけじゃない。人出が足らない分、やらないと周囲に迷惑をかけてしまうからだ。

地味で汚いというイメージは今でも変わっていない。実質行っている仕事は地味な仕事内容がほとんどだし、うんこや尿の処理という汚い部分もある。けど何回か見ているうちに俺の感覚が麻痺したのか、それとも考えるのを止めて、あきらめて踏ん切りが着いたのか。驚くことは少なくなっていた。

ここに来てから一ヶ月が過ぎた。様々な階層に手伝いに行き、揉まれた。

横柄な物言いをする職員や、物腰が柔らかい職員。様々な職員がここにはいる。おかげで大体の階層毎の流れが頭の中に入ってきていた。

風呂介助のほうも宇都宮さんと雑談をしながら、行える程になっていた。でも、それでも俺の気持ちは晴れていなかった。未だに、俺でなくても今のこの仕事は他の誰かでも出来ると考えている自分がいた。

リネン交換だって、やり方を覚えれば小学生でも出来る。

居室の掃除だって、モップやハイターの使い方が分かれば、誰だって掃除が出来る。

風呂介助は少し難易度が上がるけど、やり方を覚えれば問題ないはずだ。

乾いていた。乾いているのだ。

満たされていない。そう、おそらく満たされない。

刺激がほしい。この退屈な日常に刺激が。

いいスパイスがないか、探しているが見当たらない。

頼む、誰かこの退屈な日常を終わらしてくれよ。

かつての職場の殺伐とした時間に追われた日

々の記憶がどんどん薄れてきている。

忘れてはいけない気がした。あそこが俺の戻るべき本来の場所ではないのか。違うのか。

自分に自問自答する日々だ。

変に慣れてきたので、仕事内容が作業化してくる。自分の中で簡単なマニュアル書が出来上がってしまっているのだ。

それに乗っ取りながら仕事をしている。

「お前、言われなくても率先して動けよ。毎日、俺がやってるところ見てるだろう」

宇都宮さんが俺を怒った。怒るのも無理も無い。

確かに率先して仕事を行わない自分が悪い。


「でも、俺は宇都宮さんのように早くも完璧に出来ないので、宇都宮さんがやったほうが確実ですよ」


くだらない言い訳をする。少し慣れ合い過ぎた気がする。


「それじゃあ、俺がもしいなくなったらどうする? 未経験者が来たら、お前しかまともに風呂介助を教えられる人間はいなくなるんだぞ。だったらそんなことはいえないはずだ。お前しかいないんだ。教えられるのはそいつに」


若干、声を高くして、宇都宮さんは言った。

一体どうしたんだろうか?

いつもの宇都宮さんとはまるで別人のようだ。

宇都宮さんから熱いものを感じた。

涼し気な普段とは異なる彼の一面を見て、俺は少し彼の印象が変わった。いい題材を得たような気がする。

また新しいメンバーで堀さんという女性が加わった。年齢は一個下だが、介護経験は彼女の方がずっーと上だ。

どこに行っても、俺はいつも下っ端のようだ。


「そっちに行ったら駄目ですよ」


慌てて、車いすを掴み、方向転換する。


「だってあっちに用事があるからなぁ」


この老人は決まってそう言う。この老人は山崎さんといった。車いす移動で、徘徊癖と収集癖がある。また痴呆症だ。

一日に何度も何度も同じことを繰り返す。

毎回、徘徊する度に介護士に怒られるも、すぐに同じ行動を開始する。すぐに言われたことを忘れて、覚えていないのだ。

面倒くさいじいさんだな。

俺が山崎さんと初めて出会った時に感じた率直な印象だ。

マグロのような回遊魚のように、常に車いすを自分で押し、動いている。

俺が何度も注意しても、彼は止まらない。

知らないうちに他の人の部屋に入り、ものを取ってきて、他の入居者とトラブルになることも度々あった。

それに巻き込まれ、仲裁する俺。

もう、勘弁してくれよ。山崎さん。


「もう人の部屋に入ったり、ものを取ってきたら駄目ですからね」


俺は彼と同じ目線になるように屈み、目を見て言い聞かせた。


「んだか、分かった」


いつも彼は決まってこう返事を返すが、数分後にはけろりと忘れている。

とんでもないような人に出会ってしまった。

なるべく関わらないようにしよう。俺はそう心に決めた。


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