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飽くなき憂鬱

小説家になる。俺は小説家になるんだ。まるで念仏や合言葉のように唱えてきた言葉だ。この言葉には俺の人生の三分の一が詰まっている。小説を書き始めて十年と数年。三十一年間生きてきた中の前述はしたが、三分の一の時を費やしてきている。始めはなれたらいいな、文豪なんてかっこいいし。

くらいの気持ちしかなかった。だがその気持ちもいつしかなりたい、から絶対になるんだという強い決意へと変わっていった。しかし、現実はそうはうまくはいかなかった。自分に文才の才能があるとは微塵も思ってはいなかったが、ここまでないと思う頃には、俺の年齢もかなり進んでいた。自分が楽しく書けた。では駄目なのだ。自分が書いた文章を見て、読み手がどう思うかだ。進歩があまり、見られない数多の月日を費やし、俺が小説家になりたいと思い、書けば書くほど、思ったことは、自分の小説家への才能がないことと、文才がないこと。読み手を楽しみ、喜ばせるはずが、読み手に苦痛の時間を与えている。これは小説家がやることじゃない。俺はどうしたらいいんだ。なるという気持ちだけではなれるものではない。そう、誰かが啓示しているような気がした。


 職場の自分のデスクに戻る。デスクの上にはパソコンと山積みの書類が無造作に上がっていた。

汚ねぇ。

心のなかでつぶやき、書類をただ横にスライドしてずらす。何の解決にもなっていないが、自分が頬杖をつくくらいのスペースは出来る。

だるいわ。

今日も上司の運転係だった。上司をうまくおだてながら、目的地まで車で連れて行く。かなり気を使うし、道が知らなければ、事前に調べておかなければならないし。話は長いしと、中々面倒だった。ちなみに俺はこの上司が嫌いだ。俺は仕事ができますよという身体を通してにじみ出ているこの空気感が嫌だ。

また、長いものには巻かれろという言葉がよく似合う。お偉いさんの前ではぺこぺこと必要以上に媚びへつらう。また、非常にでしゃばりでええかっこしいで、 人前でいいところを見せようとして,見栄を張るきらいがある。大嫌いだ。そんな人間と同じ狭い空間に押し込まれていたのだ。たまったもんじゃなかった。

あぁ、思い出すだけで、嫌になる。

「おつかれさまっす」

くたびれている俺の後ろで声がした。残りの体力を振り絞り、後ろを振り向くと、そこには人事担当の茜屋が立っていた。メガネに無造作に生えている口周りの髭、短髪に身長は低い。顔はおぎやはぎのおぎに似ている。

「おつかれさまです」

疲労困憊の顔で挨拶を返す。

一体何のようだ?

「これ見ておいて下さい。上との決定事項なので、文句は言いっこ無しで」

茜屋がにかっと歯を出し、笑いながら自分の席の方へと消えていった。手渡してきたのは封筒だった。中を開けると、真っ白な用紙が入っている。その三つ折に折りたたまれていた用紙を取り出し、中身を読んだ。

そこにあったのは辞令書だった。

何で?

馬鹿な…俺がなんで来週から介護しなくちゃならないんだ?

理由が分からない。何で一体どうしてだ?

どうしてという四文字しか頭に浮かんで来ない。俺が何かしたというのか。勤務態度はいいか悪いかといったら普通だと思う。良くも悪くもない。

何か問題を起こしたか?

自分の行動を思い返してみるが…

特に何かこの病院のために不利益になることはした覚えはない。

じゃあ何でこうなる!

激しい怒りの感情がふつふつと沸き立ってきた。さっきまでの疲れなど、どこかへ吹き飛んでしまった。

人事の茜屋の元に向かう。特徴的な猫背の姿があり、席にはアイドルの写真が飾られている。普段なら、彼とそういった話題で会話したりするのだが今日は違う。

茜屋の隣まで行き、俺は奴の机の上にさっきの指令書を叩きつけた。突然、自分の机に叩きつけられた辞令書を見て、茜屋はびくっと震え、俺の顔を恐る恐る見た。その姿はまるで主人に叱られた犬のようでもあった。

「茜屋さん、これは一体どういうことですか

?」

まずは聞いてみる。茜屋は始め、口を開こうとしなかったが、ようやく観念したのか口を開き始めた。

「何って、見て分かるでしょ? 辞令書だよ」

茜屋が言った。声は小さい。

「それは俺も分かります。でも何で俺が異動何ですか?」

落ち着いた口調で俺は話す。

「うん、分かるよ。その気持ち。でも上からの決定で俺は今日その指令書を作るように、指示されただけなんだ」

茜屋は俺に対して申し訳ないのか、視線を伏せている。

指示されただけだと。何でその指示された段階で教えてくれないんだよ。

そう言おうと思ったが、この人事という役職に付いている茜屋の不憫さを感じてしまい、言うのを止めた。きっとこういうことは今まで何回もあったであろう。その度に彼の下へ文句を言いに来る輩はいたはずだ。

結局、俺はこの辞令書の内容通りに、事務職から介護職へと仕事を変える事になった。ここの仕事を辞めようかと思ったが、このご時世で今から再就職先のことを考えるのと、就職活動が面倒くさいことを理由に。俺は会社の意向に従った。まぁ介護くらいできるだろう程度の軽い気持ちで。


その日、重い足取りで自宅に帰った。自分の心の中にはびこる暗い気持ちがダイレクトに足にきている。異動になった。親に言えるはずがない。言ったところで必ず口論になるのは目に見えている。介護の方に飛ばされた明確な理由が分かるまで、話さないほうが無難だという結論にたどり着いた。そんな大した理由ではないと思う。

それにしても、本当に短かったな。事務職をやり始めて半年間。大きな仕事に関係することは手伝うことは出来なかったけど、出来ないなりに雑務等はきちんとやってきたつもりだ。

嫌な上司に、気分屋で絡みづらい先輩、年下で冴えない風貌の女の先輩。自分のいた課は、苦手な人ばかりだった。それでもそれなりにうまく付き合っていたはずだ。

飛ばされた実感があまりまだ湧いていないのか、不思議と泪は出てこない。

あるのはこの辞令書に記載されている事実と俺の職場が来週から変わるということだ。

糞野郎。

夜空に向かってぼそりと力なくつぶやいた。

自分を飛ばした上の連中に当てられた言葉なのか、人事の茜屋に当てられたものなのか、それとも自分に当てられた言葉なのか。はたまた今の現状に対してなのか。

自分でもよく分からなかった。でもただ言えることは、俺はあの課には必要ない人間だったってことだ。


介護職に就いて後に分かったことだが、俺が異動になった理由は、新しい人材が入ってきて、その人材がもの凄く、仕事の出来る人材で、どこに配置するかという話になったら一番精通している業務が俺と被り、彼の今までの経歴と俺を比較したら、会社のためには、どっちがプラスになるかということで、上の満場一致で彼が選ばれたようだ。そして厄介払いのために人手不足を理由に、俺は介護職に回されてしまったのである。その場には俺の元上司もいて、俺を庇うどころか、その新しい使える部下に一票を投じたらしい。やはりあの上司は糞野郎だ。自分の利己しか考えていない。地獄に落ちればいい。いや落としてやろうか。


 介護職初日。初日から流石に遅刻は出来ないと思い、早めに自宅を出た。親には飛ばされた理由が分かったのだが、結局異動したことを伝えていない。ふと視線を自分の身体に落とす。背広と紳士ズボン、ワイシャツが着用されている。介護の現場には私服で来てもいいと言われているが、親には異動したことを言っていないので、いつもの前の職場に通っている格好で自宅を出ることにした。変に揉めないようにしないといけない。そしてあっちに着いたら駐車場で着替えればいいだけのことだ。

手間が掛かる。でもこれが現時点で揉めない方法なんだ。おそらく親にばれるまでは続くと思う。

行きたくないのか、車の足取りもいつもより

遅く感じられた。アクセルをいつも以上に吹かし、新しい職場に向かう。

季節は秋。秋は嫌いだ。秋の空はなんとやらというが、俺にはそんな噂は訪れたことはないし、これから起きるような気もしない。初めて付き合った彼女を最近思い出すことがある。俺とは七つ年齢が離れていて、あまり可愛くなかった。

それでもとても心が純粋で、よく笑う娘だった。若気の至りか、その良さに気が付かず、次第に連絡しなくなり、自然消滅した。今、思えばその娘と付き合い、結婚していれば幸せだったかもしれない。最近、そんなことを考える。秋の寒空が、俺の心の隙間に入り込み、寂しさを増長させているのかもしれない。

目に映る人や建物、風景が寂しげに見える。

秋は心をセンチにさせ、これから厳しい冬が待ち受けている。

もう一度言う。俺はだから秋が嫌いだ。


俺は同じグループ内の有料型老人ホームに飛ばされた。その九階がこれから俺の戦場にどうやらなるらしい。

新しい職場で自己紹介する。新たに上司になる人は年配のふっくらとした小柄の女性だった。黒縁のメガネを掛けて、俺を見て、微笑んでいる。谷さんと言った。もう一人は男性で年齢は四十歳くらい。茶色の長髪で人っ子が良さそうな感じだ。身長は百七十くらいか。犬のゴールデンレトリーバーに似ている。宇都宮と男は名乗ったのを覚えている。

「よろしくお願いします」

お互いに自己紹介が済むと早速、業務内容を指示された。

無色だ。何もない。何も感じない。心が湧きだつものは何一つない。今まで自分がいた世界はこんな世界ではなかった。やるべきことを自分で探すのが当たり前の世界だった。一癖も二癖もある人間と共存するのは非常に息が詰まることだった。仕事をする空間も常に活動している生き物のようなもので、常に人の往来を口から吐いては出し、出しては吸い込んでいた。

「…って聞いてるの?」

上司が俺に何か言っているみたいだ。

「あぁ、はい。聞いてます」

実際は聞いていなかったのだが、俺は適当に返事をした。

「ぼっーとするなよ。今、一日の仕事内容を貴方に説明してるんだからね」

上司が口を尖らして言った。

うるさい、おばさんだなぁ。

やることは風呂入れとかだろ。難しくないし、

その場で対応できるから大丈夫だって。大体やることのイメージがつく風呂介助なんて、今までやってきた仕事に比べたら、大したことはないから。事前の打ち合わせなくして、今まで自分がしてきた仕事は、完遂することは出来なかった。それに比べたら楽勝だな。

「…以上。分かった?」

上司が再び聞いてきた。

「大丈夫です。問題ないです」

俺はこくりとうなずき、それらしく答える。

「ならいいけど。なら宇都宮さん後はお願いします」

「分かりました」

上司が隣にいる色男に俺の事を任せて、どこかにそそくさと移動を開始した。

「んじゃ、俺達は戻ってくるまで、テーブル、手すりのハイター消毒だ。始めるぞ」

「はい」

俺はうなずき、金魚のフンのように続く。

それで指示された通り、テーブルを吹き始めた。

はぁ、なんだこれ?

こんなの子どもの手伝いでもないのに。なんで俺がやらないといけないんだ。俺はこんなことをするために、ここにきたのか。以前の業務内容と比べて、雲泥の差に俺はただ、ため息しか出てこない。本気になってやる内容じゃあない。身が入らない。そして、俺は虚しさを感じる。飛ばされたのは自分の能力不足のせいだが。でも今やってる仕事内容は俺じゃなくても他の人でも出来る仕事内容だ。

何でこうなっちまったんだろうな。こんなことをするためにここに就職したわけじゃない。そう思いながら、テーブルをピカピカに磨き上げた。

こんなの…

誰だってピカピカに出来るな、これは。

投げやりな気持ちで、俺はまた別のテーブルを拭きにいく。

この負のエネルギーを小説に活かしたいものだ。

最近、小説を書いていても、中々筆が進まない。その上、書いたとしてもウケが非常に悪い上に面白くない。

そんなことを考えているうちに、どうやら吹き終えていたようだ。無意識の上で終わるとは。

本当にこれが仕事と呼べるのであろうか。

仕事の一部と言えば、そうなのだが。

何にせよ、簡単過ぎる。

「よし、終わったな。そろそろ戻ってくる頃だから。送迎の準備をするぞ」

宇都宮さんがバケツの水の処理をしながら言った。

「はい」

気前よく、返事をしたものの気持ちがついてこない。

介護は俺には向いてない。

そんな気がする。

近いうちに人事の茜屋に連絡しようかと考えた。彼なら俺のことを少しでも理解してくれるかもしれない。最悪ここを辞めることも念頭に入れておかないとな。そう考えながら、送迎の準備を開始する。

人数は三人。女性二人に男性一人。俺は挨拶をして、自己紹介をする。

一人だけ、話し声が聞き取りにくい女性がいたけど、三人全員少し身体が不自由なだけで、意識はしっかりしている。少し安心した。言葉が通じなければ、どうしようかと思っていたところだ。

入居者様の近くまでいき、同じ目線で大きめの声でゆっくり一言一言丁寧に話しかける。

まるで自分が自分でないみたいだ。普段の自分はこんなことはまずしない。しかも話す内容は小学生と話している内容みたいだ。

「おはようございます。村田さん、今日はお風呂の日ですよ。それにいい天気ですね」

宇都宮さんが一人の女性の入居者様に話しかけている。杖をついて歩いている、黒髪の天然パーマの気さくそうな小柄な老婦人だ。

本気かよ?

事実は小説より奇なり。

小学生より赤ん坊に話しかけているようだ。

出来るのか、俺にこんなことが。

なんでこんな低俗な馬鹿らしいことを俺がしないといけないんだ、ちくしょう。

これも全て、新入りや俺を庇うことすらしなかった上司のせいだ。

ここでは冷静になれてないが、実際は自分の力不足で前職場に留まれることが出来なかっただけの話だ。

新しく入社した人で、自分より能力が優れていて、会社の即戦力になる人ならば、使えない自分より、そちらを取るのは至極当然の事であろう。自分が選択する人間であってもそうするであろう。

だけどこの時の俺は、ただの被害者面をした悲劇の主人公だ。自分が飛ばされたということだけを棚に上げて、自分の能力不足を一切認めていなかった。

「おはようございます。今日からここで働くことになった藤原です。よろしくお願いします」

目線を同じ高さにして、ぎこちない笑顔で微笑んだ。うまく笑顔で対応できているだろうか。

「おはようございます。おぉ、今日からよろしくね。田原といいます」

田原と名乗った男性の入居者が笑顔で返答してくれた。頭は剥げていて、身長は百八十近い。足がかなりむくんでいる。

ふぅ、どうやらうまく笑えてはいるようだ。

何故だか分からないが、ここにいる上司や宇都宮さんを含め、入居者様も全員がニコニコと微笑んでいるのが分かる。

みんな、笑っている。しかもその場の瞬間的な笑顔ではなく、にじみ出る笑顔だ。この感じは、前の職場では感じることのできなかったものだ。

妙な感じだ。太陽からの日光で照らされる大地のようにほんわりとしている。

でも、俺は違った。俺のこの笑顔は作った笑顔だ。本心では未だにこの仕事をやっていけるかどうか、続けていけるかどうか考えている。いやいつか必ず元の事務職に帰ってやると思っている。

偽りだ。

この笑顔は偽りに過ぎない。

演じているのだ。

介護職として働いている自分を。

だから気持ちはここにはない。

主役のいない舞台に、今は介護職というピエロが現れ、そこで必死に道化を演じているのだ。観客もいないために拍手喝采すらない。自分のために、ただただ頑張っておどけているのだ。

「今日はこれからお風呂お願いするね」

「はい、初めてで不慣れですが、頑張るのでよろしくお願いします」

俺の中のピエロが出てきて、宇都宮さんに返答を返した。

本心からは答えられない。

「藤原、風呂の用意するぞ」

一通り、入居者様を回った宇都宮さんが言った。

「了解です、準備します」

風呂場まで行き、浴槽にお湯を貯める。

今日の入居者様は村田、宇都宮が一般浴で、信太が特浴だ。特浴とは寝台浴のことだ。寝台の中にお湯を貯める仕様になっている。このことは事前に掲示されていた表で俺は確認済だ。風呂介助が始まった。

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