<追跡>の呪文
(消えたか……)
とある旅人にかけた<追跡>の呪文が途切れたのを察知したペータリオンは、ぱちんと指を鳴らして、愚か者の記憶をはるか彼方に葬り去ることにした。長い生には、覚えておくべき事はそう多くはない。
呪文の効果が切れたわけではない。となれば、旅人の命が尽きたのだろう。
(長くもった方だな。……ふん、ばかばかしい)
ペータリオンはもう一度だけ角度を変えてぱちんと指を鳴らして、低い口笛で使い魔を呼びつけた。カーテンがはためき、重たいビロードの間から金色の嘴が現れた。嘴は、ぺータリオンにガラス瓶を渡すと、再びゆっくりと影に戻っていった。
ぺータリオンは、しばらくの間ガラス瓶から出てくる煙に身を浸した。記憶がぷかぷかと霧散して消える。
<追跡>の呪文は、もう15年も前にかけたものだ。
旅人は、ペータリオンにぶつかって飲み物をこぼしたのだった。旅人は慌ててぺータリオンのマントを脱がせ、たき火の火の近くへ寄せた。
旅人は、謝ったあとにまるで友達のように自分のことを話すような人間だった。世界に似合わぬ純真さにひどく不愉快さを覚えたペータリオンは、とっととその場をあとにして、いつもの魔術師の集まりにしけこむと、あの冒険者がいつまで生きてられるかと、他愛もない賭けの種にしたのだった。
<追跡>の呪文はその時にかけた。
三週を過ぎたところで、それはあいまいになってしまった。すっかり忘れていったのだ。今こうして、――術が途切れるまで。
名前をおぼえるのすら億劫だった冒険者の像は、ぼやけてだんだんと薄らいでいった。ふう、と息を吐くと、酩酊と覚醒のまにまに、ひどくおぼろげな彼の姿が見えたような気がしたが、それもぼやけて消えていった。茶色いくせっ毛をしていたような気がする。
15年も前のことになる。お人よしにしては長く生きた。
それからすっかり、ペータリオンは、その愚かな冒険者のことなど――記憶の外にほっぽりだして生きていたのだったが。ある日のことだ。しばらく離れていた魔術に戻ると、<センス・マジック>の呪文というものがあるのを知った。正確には――わりあい最近にできた呪文だった。
またしばらくして、ぺータリオンはこの呪文の用途を知った。追跡呪文にかけられる阿呆を専門にして襲う盗賊がいるのだ。ターゲットをつけてうろうろしているというのは、間抜けだと手を振っているようなものだった。
ペータリオンの頭の中に、一瞬だけ鮮やかな異装の男の姿が思いうかび、消えていった。ペータリオンはいつかのように嗅ぎ煙草を求めて手をさまよわせたが、代わりに水さしから水をあおるのみだった。
もし、自分の呪文が――旅人の運命を変えたのだとしたら。
ペータリオンは、ただ通りすがっただけの、そして間抜けで親切な男にかける悔いや、罪悪感というほど悪びれるような人の心を持っていなかった。そんな心はもう擦り切れてしまっていたのだ。
けれど、それでもなお、しくじった、――かもしれない、という感覚だけが気持ちに染みをつけている。意図に沿わない魔法の使用。表舞台から姿を消した魔術師にとっては、うっとおしいものだった。
ため息をつくと、煙は蛇のようにくゆっていって、のど元をぐるりと巻いて外へと昇っていく。
<追跡>呪文のせいで男が死んだとは限らない。
確かめるすべはもはやない。もうずいぶんと前のことなのだから。