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総力戦システムへの考察

 富国強兵の掛け声は、薩英戦争や英仏蘭米との下関戦争などの敗北という恐怖からの脱却でもあった。このための技術導入や経済政策が、明治以降の基本政策となっている。

 幕末から始まる、西洋技術の導入と発達は、かなり歪であった。先端技術を追いかけるあまり、基礎技術が追いついていかなかった。これは、科学・技術・技能のいづれの分野でも同じで、非常に高度に発達した部分と、置き去りにされた部分が融合して、科学・技術・技能が構成されていた。


 戦前における科学・技術・技能を含めた総力戦システムへの考察


 昭和一桁あたりの電気や機械の関連資料からすると、日本の基礎技術そのものにバラツキが大きかったことが示唆されています。有名な超ジュラルミンや超々ジュラルミン開発といった先端技術、各種工作等における職人芸、基礎学力の高さから来る、現場での各種手順書の策定や工夫、これらは、すばらしい結果を生み出すと共に、ばらつきの大きさが歪として表れてきました。

 これは、個人の質がばらつく様になると、さらに製品の質がばらつくようになります。

 逆に、上手く日本のシステムに取り込まれなかった結果、八木アンテナとかは、個人に依存していたが故に他国のシステムとして活用されたりします。これもまた日本が持っていたバラツキの結果だろうと思います。日本が要らないと判断したけど、実際には必要な技術だった。


 こういった様々な科学、技術、技能分野での成果は、非常に属人的な成果であり、一般化されるまでに非常に時間がかかる状況を生み出していたのだと判断できます。これは、明治以来の日本が持っていた特長であったと思います。当時の科学・技術・技能は、個人に所属していて、組織にも国にも囚われることなく、自由闊達に発展していったのが明治以降の社会だったように感じます。

 零戦は、太平洋戦争前に、艦上戦闘機として開発され、太平洋戦争を戦いました。技術的な一番の特徴は、玄人が設計、玄人が製作、玄人が操縦、玄人が整備、その結果は非常に高度な戦闘システムとして力が発揮できるモノとなっていた。このため、素人が混ざることで、弊害が加速し、戦闘システムとして力が低下していくという状況を生み出してしまいました。


 これは、零戦だけではなく、当時の教育体制による戦意高揚や維持を含めて、ほとんどの総力戦におけるシステムに適応されていたと判断できます。これが、1974年まで戦い続ける日本兵を生み出し、1972年まで生き続けた日本兵は表れない。

 幕末以降の日本は、すべての国民の総意を築き、国家の総力を挙げて、強兵国家を築き上げたと思う。日本の強さというのは、個々の能力を個々に自覚させること、身近な個人個人による連携を積み上げていくことで、大きな力を発揮できるようにするため、目標を明確化し方向性を定めること。

 このことは、現代風に言えば、国家に対して、リーダーシップやプロジェクトマネージメントを行った例といえる。

 これは、戦前の話を聞けば聞くほどに、大は国家から個人に至るまで徹底されてしまったように思います。

 科学・技術・技能は、設計、生産現場、家庭、役所といった、それぞれの国家の基盤システムに適応されますが、それぞれのシステムは個人個人に支えられ、システムではなく個人に依存した構造になっていきました。堀越二郎が零戦の設計者として名が挙がりますが、彼一人ですべてを実行できたわけではなく、彼を起点とする利害関係者集団の意思が作り上げ、運用され、神話の域にまで高めたのだと思います。

 高度成長期が形成したシステムそのものも本質は同じで、それぞれの個人がそれぞれの立場の中で、会社や組織というシステムを支えて発展させていった例だと思います。個人がシステムに依存し、システムが個人に依存する、日本が海外から見てムラ社会と言われたのは、ここら辺が遠因と思いますねぇ。




 結果として、日本は強兵国家とはなれたものの、その方向そのものを変更することができなかった。これが、ゼロサムゲームのように勝ち続ける程に自分の首を絞めていくとい流れとなり、すべてを失う敗北に繋がるまで止められなくなったのだと判断しています。




 「昭和16年夏の敗戦」という資料は、幕末以降、一連の流れを生み出し、生み出された流れそのものが圧力となってしまい、「開戦可能かつ敗戦確定」という総力戦研究所の結果であったように思います。著者の方は、当時の官僚等が責任を取りきれなくてというか、英断ができなかったという話をされていますが、昭和16年の時点では、すでにどうこう言えるような状況ではなかったと考えています。


 当時の満州国を含めて、大陸利権をアメリカと取引する。亡命ユダヤ人受け入れを積極的に推進して、アメリカと連携した利権を大陸に構築するといった構想にしても、それぞれの構想が、個人に依存し、個人が個人と連携するグループ内の個人に依存する。これは、国家の戦略構想を、個人が実現しようとして意思を持ったに等しい。連携する個人個人も別の戦略構想を持ち、自分の戦略構想を実現しようとする。歯車が上手く合えば、個人の構想が全体構想となり、国家戦略ともなっていくが、歯車が噛み合わなければ、暴走するシステムを生み出すに等しい。

 例えば、満州国の要望を尊重した行動で、関東軍の意思ではないという理由付けをすると、関東軍そのものに責任は無く、行動は日本政府の意思によらずに実行されることとなる。結果、日本政府は満州国との外交折衝をした上で対応し泣ければならない。

 現代人の感じとしては、台風で被害にあったんで、自衛隊の出動を要請しますくらいの感覚で、馬賊の被害を受けたから、関東軍が出動要請するようなものである。現行の自衛隊が、拠点防衛以外の戦略が取れないと推定されたのは、この当時の地方権力が持つ強さに迎合する危険性からきていると判断している。


 日本のシステムというか方向性にズレが生じるようになったのは、幕末からの流れの中で構築された方向性は、「国家経済を拡大して、強兵を創出する。強兵を創出することで、国家の安寧を図る」ことであって、決して戦に勝利することではない。戦に勝利してしまったために、国家規模が拡大してしまい、守るべき国益が拡大する。国家規模が、自身が創出した強兵規模に見合わなくなれば、すべての国益を守ることはできなくなる。この守ることができなくなった国益こそが利害関係者による調整機能喪失という現象を生じさせてしまう。

 守れない国益は、どこかで再構築する必要がある。満州国という国益をすべて守ることは難しいとした場合、結果として投下資本の回収ができないこととなる。投下資本は利害関係者を拡大し、意思をもった利害関係者集団を形成する。意思を持った利害関係者集団が国家システムそのものを形成してしまうと、日本の国家制約の枠組みを離れて、圧力団体が持つ機能は極限まで肥大化してしまうことになる。これが、満州国が独立してしまったことで生じる問題である。

 関東軍に対しては、国軍である以上、日本の中央政府が一定の命令系統を持っていても、満州国が独立国家である以上は、満州国の国家としての判断を止めることは難しい。


 個人的なWWⅡは、日露戦争で日本海海戦で日本が圧勝し、二百三高地で勝利し、旅順を確保する。しかしながら、奉天で敗北し旅順に撤退する。その後に、米国の仲介でポーツマス条約を締結する。このため、「満州からロシアは撤兵せず、東清鉄道を含めて満州の租借権はロシアのままとなる。旅順半島を確保するに止まり、賠償金は一切取れない、樺太割譲については微妙」という結果となり、日比谷公園焼き討ちを含めた暴走は、史実より大きくなり、戦争継続派が軋轢を起こすものの、国内では何とか鎮圧したものの数万人規模の反対運動から千人程度の死傷者や1万人前後の逮捕者を出す。

 結果として、大正デモクラシーは拡大され、国民への権益移動が加速します。

 史実の第一次世界大戦およびシベリア出兵は、日米英仏伊といった連合国による満州出兵となり、連合国による満州利権の確保という結果となる。共産主義国家ソヴィエトの成立や内紛、極東ロシアの敗北によって、大きく勢力範囲が変化し、ボロン湖周辺や沿海州を含めた、広大な領域が国際連盟の承認によって、満州国、沿海国、東ロシア共和国を含めた東ユーラシア連邦という実験国家の形で設立される。樺太は、日本の委任統治領として利権を獲得するとともに、満州国へは旅順を基点として、日米英仏伊による資本投下による利権確保をはかる。また、ウラジオストクを起点とする沿海国は、米英日仏伊による資本投下による利権確保となった。結果として、ウラジオストク-ハバロフスク鉄道敷設や、旅順-奉天-ハルピンの鉄道敷設が拡大し、ハバロフスクからモスクワに向かっての鉄道敷設といった資本投下がなされ、東ユーラシア地域の経済圏が形成される。

 1920年あたりから、軍縮条約の勢いが増して、ワシントン軍縮条約で日米英が主力戦艦45万トンで仏伊が17万トン、空母が日米英13万トンという流れとなった。

 超弩級戦艦、長門、陸奥、ネルソン、ロドニー、コロラド、メリーランド、ウェストバージニアの7隻がビッグセブンと呼ばれ、海軍の休日(Naval Holiday)と称された。 世界恐慌から始まる流れとして、ナチスドイツの台頭や、5.15や2.26事件に準じる内憂の発生と対処、独-ソと独-伊の接近が、徐々に外圧を上げていく。日本は、東ユーラシアへの資本投下と依存を強めつつ、米英仏との接近をはかる。


 第二次世界大戦は、独伊ソの三国同盟VS日米英仏の連合国で戦う流れとなる。

 戦前の日本は、総力をあげて、富国強兵をすすめてきました。政治、経済、科学技術など、すべての分野が、一色に染まっていたようなものと考えられます。このため、非常に歪な体制構造が構築されていったというのがあります。

 また、本質的にチームやグループではなく、人に依存する属人的な構成になっていたことも事実です。システム

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