Moonlight Sonata
いつも通り、白い黒猫さまと密な打ち合わせのもと、今回は単独での更新です。黒猫さま、ご協力ありがとうございます。
ちなみに、サブタイトルはクラシックから。ベートーヴェンの「月光」より、第二楽章の静かな旋律をイメージしながら書きました。
※なお、このお話は、現在よりも10年ほど前のお話、ということになっております。気候や今年のお月見とは曜日が矛盾していますが、そこはご容赦くださいませ。
『明後日の夜、七時にあの花火の河原で待っています。 澤山 璃青』
これでよし、と。
次の日はどちらもお仕事があるから真っ暗になる直前の、淡い夜の入り口でお守りを渡そう。
翡翠もオニキスもマラカイトも魔除けの意味を持つ石だけど、そこに一粒だけのラピスラズリの違和感を隠して使う。
何故、そんなデザインにしようと思ったのか自分でもわからないけれど、初めのインスピレーションは変えたくないから。
革紐を繋げたらブレスにもなるデザインは、売り物にはないオリジナル。
ラピスラズリは偶然にもわたしの誕生石だけど、ユキくんは、そんなことは知らないはず。
お守りの中の一粒だけのわたしの存在には、多分ずっと気付かないだろう。
繋ぎ終えたら柔らかなフェルトの巾着袋に入れておしまい。
どうか、あの人の未来を、ずっと先まで護ってね。
日曜の夜七時。ほんの少しだけ昼間の光を残しただけの、濃い紫の空の下。わたしはふたりで花火を見た河川敷で彼を待っていた。
何となくここでの待ち合わせにしてしまったけれど、彼はわたしに気付いてくれるだろうか。
大して人気もないだろうと思っていたのに、月光浴を楽しむ人が、よく見るとちらほら歩いている。
一瞬、商店街の誰かに見られることを心配したけれど、この暗さだし大丈夫よね。
「璃青さん」
「ユキくん、こんばんは」
「今晩は。晴れていてよかったですね」
時間より少しだけ早く現れた彼を、月明りが照らす。
街灯の少ない場所だけど、彼の顔ならよく見えている。柔らかく笑う彼に、ついつられてしまいそう。
「うん。じっとしてると蚊に刺されちゃうから、少し歩きましょう」
今日は普段履きのフラットシューズだから歩き回っても足を痛めることもない。草履で傷めた足も完治している。
わたしはユキくんの先に立って、早くも秋の虫の鳴く河川敷を歩き出した。
もう少しだけ月の光を浴びたなら、このお守りを渡せるだけの勇気が満ちるから。
今はゆっくり、歩きましょう。
「綺麗ね」
「そうですね。………本当に綺麗だ………」
いつもより甘く柔らかく聞こえる背後からの声。
一体どんな表情をしているのだろう。
振り向きたい、でも振り向けない。
お月さまは、完全ではないものの、ほぼ満月。
いつの間にか日も落ちて、上空の空気が冬ほど澄んでいるわけではないけれど、濃紺の空には星が瞬く。
街灯と月明りだけで充分だと思っていても、やっぱり足下は少し不安定。
実は何もないところでも転べる内緒の特技を持つわたしが無事でいられるわけもなく。
「わぁっ!」
「璃青さん!」
バランスを崩したわたしの背後から二の腕を両方とも掴まれて平常心でいられる人はいないと思う。
もの凄くびっくりしたけど、落ち着け、わたし。
「あ、ありがとう」
「いえ。璃青さんが無事で良かったです」
背中に彼の体温を感じながら、わたしの声が震える。
転ばないよう強く掴まれた腕は離されて、その熱はすぐに消えた。
けれどその時、大きく一歩先に踏み出した彼に目の前の視界を塞がれて、気付いたら手を取られていた。
「手、繋いでもいいですか?心配なので」
思わず見上げた顔は、もしかして笑いを堪えている?
こんな時、ふとどちらが年上なんだか……、なんて思ってしまう。あの夏祭りの時のように。
そのまま再び歩き始めた彼に一瞬遅れて、わたしは慎重に俯いて足を運ぶ。
真夏のそれとは違う、ほんの少しだけ冷たい夜風に吹かれて、まだ青いススキと虫の声の中をゆっくりと進んでいた。
どこまでを今日のゴールにしたらいいんだろう。
お守りを渡すタイミングを考えて、ドキドキしながらこんな時間、早く過ぎてくれたらいいのに、なんて思ってしまう。
さあ、そろそろ勇気を出して。
「ねぇ、ユキくん」
「はい」
わたしの声に立ち止まり、振り向いた彼の手を、そっとわたしから外した。
「この間言ってたお礼。はい、これどうぞ」
「これは?」
「天然石で、お守り作ってみたの。でも、こんなの貰っても重いよね。ごめんね。あの、お気に召さなかったら処分してくれてもいいの」
「そんなことしませんよ!………どうしようもなく嬉しいです!ありがとうございます。大事にしますね」
そう言うとユキくんは、見惚れるくらい綺麗に笑った。心から嬉しそうな、わたしだけに向けられたその笑顔に、胸が痛いほど締めつけられた。
「うん、どういたしまして」
これを渡してしまったら今夜の約束はもうおしまい。
「忙しいのに出てきてくれてありがとう。遅くならないうちに帰りましょう?」
けれどユキくんは、微笑みながら首を横に振った。
「もう少し、月、見ていきませんか?」
その言葉に、わたしの心が震える。
「…………え」
間抜けに答えるわたしにユキくんはクスクスと笑う。
「折角の中秋の名月ですよ。こんなに綺麗なんだからもっと見ていたい。…………璃青さんと」
少しだけトーンを落とした声で名前を呟かれて動揺するわたしに、ユキくんは気が付いていないのかもしれない。
視線は既に真っ直ぐ空に向かい、その瞳には月を静かに映している。
隣にユキくんという存在を感じながら、わたしは返事も出来ずに、同じように空を見上げるしかなかった。
「月って神秘的な力を持っているんですよね。ただ空にあるだけで、海を持ち上げ、地球にいる生物に影響を与える」
「そうね。満月の夜は、子供が産まれやすいって言うものね」
わたしは彼の紡ぐ言葉に耳を傾けていた。夢中で月を見ているユキくんに、再び“もう帰ろう”とは言えなかった。
「実はね、俺も満月に呼ばれて、予定より早めに産まれてしまった子なんです。そのせいで色々スケジュールが狂って大変だった、って母から未だに文句を言われる事がありますよ」
「そうなんだ。じゃあ、ユキくんは月の子なのね」
おどけて話すユキくんに思わず笑いが零れると、ユキくんは月からわたしに視線を移した。
わたしをじっと見つめるユキくんは、どこか月のよう。
綺麗だけれど、手を伸ばしても届かない、遠い存在。
突然、ユキくんの指先が延びてわたしの頬に触れながら、髪をさらりと梳いた。
「すいません、少し乱れていたので」
知らないうちにあまりにも近くなっていた距離に、一瞬身体が固まる。
触れられた頬が熱い、冷静でいられない。
「人間、いや、地球にいる生物全てが月の子なのでしょうね。月にこうして力を貰って生きている。満月を見ていると、何故か元気になりませんか?」
「…………そうだね」
わたしは収まらない胸の鼓動を隠して、精一杯の笑顔で頷いてみせた。
声、震えてないかな。
それからふたり、黙って月を見上げていた。
けれど突然ススキの匂いのする風に、ふと鼻をくすぐられ、我慢したのに「クシュン」と小さくくしゃみをしてしまった。
「流石に冷えて来ましたね。戻りましょうか?」
そう言いながら、もう手を取られていた。
ユキくん、わたし、そんなにそそっかしくないよ、多分。それに、そんなことされたら胸が痛いよ。
「すいません、寒かったのでは? こんなに冷えて」
「やだ、気にしないで。誘ったのはわたしなのよ? まだ九月だしそんなに寒くないと思ってたけど、夜は湿度も下がるのかな。昼間はあんなに暑くても、もうちゃんと秋なのね」
答えながらその手を離そうとしたけれど、ユキくんはどうやっても離してくれそうにない。
それどころかわたしが引こうとした手は、むしろ強く握り直され、思わず“ぁ”と小さな声が出ていた。
わたしを促すように先に歩き出したユキくんを追いながら、わたしの手は彼の温度と溶け合っていく。
ユキくんには、ここに来てからずっと元気を貰っていた。それと同時に誰かを想う気持ちを、少しずつ、少しずつ思い出してしまったけれど。
そう、こんな場面の積み重ねで。
もう認めよう。
心の中に芽吹いた蕾を見ないふりは、もうやめよう。
伝えられなくてもいい。静かに終わりに出来れば、誰にも知られずに傷はいつか塞がるだろう。
わたしは明後日、誕生日を迎える。
あなたからはもっと遠ざかってしまうけれど、今この瞬間だけは隣にいることを許して貰おう。
『あなたが、好きよ』
わたしは今にも咲きたがって淡い光に揺れている蕾を胸に、時折立ち止まっては同じ月を見上げながら、指先から気持ちが伝わらないよう、それだけを祈っていた。




