魅了する女
おまえは蚤の市の中にいる。左右に立ち並ぶ出店の数々に、おまえは目を奪われる。用途の分かる品が多いが、そうでもないものもある。お金は無いので冷やかすだけだが、おまえはあまり気にならない。おまえには物欲がほとんどない。
しかし空腹は無視できない。食べ物の匂いに釣られながら、おまえは蚤の市を歩く。ただで食べられそうな物はない。全ての品には札がついている。
おまえは街に入って初めて、この世界の言葉を目にする。どこかで見たような、見てないような。少なくとも、おまえには意味がわからない。それでもおまえは気にしない。会話には何の支障も無い。都合がいいのは、夢だから。おまえはそう解釈する。
おまえは人の往来を目にする。すれ違う相手は様々だ。老若男女が清貧問わず、様々な格好で歩いている。綿、麻、毛、絹、皮、鉄、銅と、纏う衣服の種類はおろか、材質さえもまちまちだ。中には裸体の者もいる。なによりも一番に目がいくのは、彼らの髪と瞳の色だ。その色の鮮やかさに比例して、着ている服も煌びやかなのだと、おまえは後で気付くことになる。
蚤の市を抜けた先に、大きな川が流れている。おまえは強烈な渇きを覚えて、ふらふらと川岸へ寄って行く。石畳の道は途切れている。おまえは芝も砂利も気にせず踏みしめ、光る川面に吸い寄せられる。
川に向かって首を伸ばすと、犬のように水を飲む。こんなにも飢えていたんだと、おまえはそこで初めて気付く。驚きと興奮と喜びで、おまえは飢えを忘れていた。満たす喜びを確認するように、おまえは何度も喉を潤す。
気付けばおまえの周りには、人だかりが出来ている。飲んではいけなかったのか。おまえはそう考えて、川からゆっくり距離をおく。おまえは手の甲で口をぬぐうと、人垣を割って通ろうとする。そんなおまえの手が掴まれる。おまえを掴む手の先には、褐色の女が立っている。おまえは捕まったことへの恐怖と、掴んだ相手の美貌にたじろぐ。
「…大丈夫なんですか?」
「…え?」
「下流の水をそんなに飲んで、お腹は何ともないんですか?」
おまえはようやくそこで気付く。飲んではいけない水ではなく、飲める水ではなかったことに。おまえは一瞬腹を気にしたが、大丈夫だろうと高をくくる。根拠のない見栄を張るのは、女を前にした男のクセだ。
「大丈夫。多分だけど」
「…!」
女は驚いておまえを見やる。女は整った顔立ちをしている。しかし薄汚れた格好をしている。灰色の長いまつ毛と髪の毛が、ぼろぼろのワンピースと同化していて、堺目がよくわからない。女は他に何も着ていない。下着おろか、靴さえも。
「…少し、お話できませんか?」
女は伏し目がちに、おまえに言う。おまえが誘いに乗ったのは、女の美貌に魅せられたからだ。
褐色肌の女にひかれて、おまえは木陰の中へ入ってゆく。市からも川からも少し離れた、人気のあまりない場所だ。
「…あの、実はあなたに折り入ってお願いしたいことがあるんです。聞いていただけますか」
おまえは思わず生唾を飲む。人気のない場所でお願い事。おまえは女を知らなかった。知れるかも知しれないと期待するのは、人の性だから仕方がない。
「私は、リズと言います。今は公領様の使用人をやっております。お願いというのは、私と一時的でいいので仕事を変わってもらえないかということなんです」
おまえは落胆の色を隠せない。けれども希望は捨てていない。お願いごとの後のことを、おまえは否応なく想像してしまう。
「使用人の仕事…。どんなことをやるの?」
リズはそこで視線を落とし、何か言いたげにもじもじしている。おまえは性欲に駆られているから、ロクでもないことを想像する。人には言えないような仕事。リズの容姿と身形から想像のつく、いつの時代にもあるお仕事。冷静になって考えれば、男のおまえにその手の仕事は回ってこない。おまえが冷静でいられないのは、リズに魅了されているからだ。魅了に抗うパッシブスキルを、おまえは持ち合わせていない。
リズはなかなか顔を上げない。おまえは相手を気遣って、いらない世話をかけてしまう。
「…あ、言いにくいならいいよ。なんとなく察しもつくし」
「…え、本当ですか?」
「お金が無くて困ってたんだ。飯が食えるならなんでもするよ」
「よかった!それにちょうどよかった!食べるお仕事ですから、食べることには事欠きません!」
「…え、食べるお仕事なの?」
「はい!公家の毒見役です!」
リズはそう言ってにっこり笑う。それに釣られておまえも笑う。なんて妖艶な笑顔なんだと、自虐を込めて苦笑いをする。