3年間墓守をして死んだのは自分だと思い込んでいたら、埋葬されていたのは夫だった件
3年間墓守をして死んだのは自分だと思い込んでいたら、埋葬されていたのは夫だった件
死んで三年。夫が再婚することになった。
その日、高槻冬真は十年近くつけていた結婚指輪を外し、私の墓前にそっと置いた。しばらく墓石を見つめたあと、昔と変わらない穏やかな顔で笑う。
「真帆。これからは、もうここには来ないようにするよ。いつまでも通ってたら、嫌がる人がいるから」
十歳になった陽向も、抱えていた花束を墓前に置いた。三年前よりずいぶん背が伸びて、目元は父親によく似ている。
「お母さん、僕たちも新しい生活を始めるね。お母さんも、向こうで元気でいてね」
油断していた私は、墓石の縁からずり落ちた。三年も幽霊をやっていれば転んだくらいで痛みなど感じないはずなのに、胸の奥だけは何かに強くぶつけたように苦しかった。
二人を見つめたまま、どうにか笑う。
「うん。私たち、そろそろ前に進まないとね」
1
水曜日の朝、朝凪霊園の門がゆっくりと開いた。
冬の朝日は薄く、高槻冬真の姿を淡く照らしている。着ているのは、見覚えのありすぎる黒いウールコートだった。片手にはキャンバス地のバッグを提げている。
待ちくたびれていた私は、彼を見つけるなりそばへ飛んでいき、生きていた頃の癖で腕に絡みついた。
「冬真、遅い。奥さん、もう少しで凍え死ぬところだったんだけど」
今の私に寒さなんて関係ない。それでも肩をすくめ、そのまま彼にもたれかかる。冬真は何も言わなかったが、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
よく見ると、コートの袖口は少しくたびれている。
「医長にもなって、まだそれ着てるの? 後輩に笑われるよ」
呆れた口調で言いながら、内心では少しうれしかった。そのコートは、私が社会人になって初めてもらった賞与で買ったものだ。私がいなくなって三年経っても、冬真はまだ着ている。
霊園の奥まで歩いた冬真は、小さな灰色の墓石の前にしゃがみ込んだ。ポケットからハンカチを取り出し、表面の埃や枯れ葉を丁寧に払っていく。
掃除を終えると、今度はバッグからオレンジ色のマフラーを取り出し、墓石に巻いた。
「真帆。これ、動画見ながら編んだ。陽向には『ちゃんとマフラーに見える』って言われたよ。まあ、こういうのは真帆にしか編まないけどな。昔から寒がりだったし、冬になると全然外に出たがらなかっただろ」
私は鼻をすすったふりをした。
「今なら私のほうが寒さに強いよ」
すると、冬真がちょうど返事をするように呟いた。
「冬になるたび、人のコートの中に潜り込んでたのは誰だったっけな」
一瞬、言葉を失ってから笑った。三年経っても、私たちはこういうことがよくある。私が何かを思うと、冬真がそれに返事をするようなことを言うのだ。
死んでも案外、私たちの間にあるものは変わらないのかもしれない。
そう思っていた。
私がさっき彼の肩へ寄ったとき、冬真の指が一瞬だけ強く握られていたことにも気づかずに。
2
朝凪霊園は、普段ほとんど人がいない。
それでも冬真は毎週来た。墓石の横に座り、昔、仕事から帰ってきた夜と同じように、一週間の出来事をゆっくり話していく。病院での出来事だったり、陽向の学校の話だったり、本人ですら「こんな話してどうするんだ」と笑うようなことも多かった。
その日は、以前住んでいたマンションの上の階にいた女の子の話になった。
「真帆。前に上の階に住んでた子、覚えてる?」
もちろん覚えている。六、七歳くらいの子で、白血病の治療をしていた。学校にはほとんど通えず、同い年の子より一回り小さかった。
母親が時々、小さな鉢植えを買ってきてくれるらしく、彼女は毎日ベランダで世話をしていた。引っ越す前には、空き缶を鉢代わりにした小さなヒマワリを私へくれたこともある。
「お姉ちゃん。ひまちゃん、あげる」
「じゃあ、あなたは?」
女の子は小さな空き缶を私の手に押しつけると、何でもないことのように笑った。
「お母さんがね、遠いところに行くんだって。そこに行ったら病気も治るって」
そのあと一家は引っ越してしまい、どうなったのか知ることはできなかった。
「それで? あの子、元気になった?」
冬真の表情がやわらいだ。
「元気だよ。友達もたくさんできたし、もう痛くないって」
妙な言い方だと思ったが、考える前に冬真が話題を変えた。
「最近、病院行きたくないんだよな」
「高槻先生でも、そんなこと言うんだ」
思わず吹き出すと、冬真は額を押さえた。
「うちの師長が、誰か紹介しようかってうるさいんだ。陽向ももう十歳だし、俺もいつまでも一人じゃ駄目だろって」
胸の奥が少しだけ重くなる。何秒か黙ってから、笑ってみせた。
「まあ……悪い話じゃないんじゃない?」
冬真は膝の上で手を組み、しばらく墓石を見ていた。
「俺たちの子に、他の人を母親って呼ばせる気はないよ」
「相変わらず頑固だね」
そのあとも、新しく入った若い医師が危なっかしいだとか、陽向が科学部に入って家の物まで分解するようになっただとか、どうでもいい話が続いた。
冬真が帰ったあと、私は彼が座っていた場所に残り、門の向こうへ消えていく背中を眺めた。
頭から離れないのは、さっきの話だった。
いつまでも、一人でいる必要なんてない。
背後で、ぱちんと指を鳴らす音がした。振り返ると、水城玲が腕を組んで立っている。
玲は、幽霊になってからできた唯一の友達だ。この霊園には墓がいくつも並んでいるのに、長く留まっている死者はほとんど見かけない。
「見すぎ。いくら見たって、前の生活には戻れないよ」
言い返せなかった。
玲によれば、私たちのように生と死の境目に残っている魂には、いられる期限があるらしい。時間が来ればここを出なければならないが、その先がどこなのかを聞いても、いつも適当にはぐらかされた。
私に残された時間も、もう多くないらしい。
3
玲は大きなあくびをして、私の肩を軽く叩いた。
「いつかは行くんだから」
「玲、また寝るの?」
玲は面倒そうに片手を上げ、そのまま霊園の奥へ歩いていく。
「他にやることないでしょ」
「生きてた頃も、そんなに寝てばっかりだったの?」
今度は返事もなかった。玲は自分の墓石のそばまで行くと、そこへ寄りかかるようにして姿を消した。
私は冬真がいた場所に座り直した。
三年間、ずっと寂しかった。この霊園から出られず、たまに墓参りへ来る人には姿も声も届かない。こちらから触ることもできない。
玲以外に話せる相手はいなかった。
ここに長く残る魂には、それぞれ手放せないものがあるらしい。私にとっては冬真と陽向だが、玲が誰を待っているのかは教えてくれなかった。
以前は、このままでいいと思っていた。
陽向が大人になり、冬真が年を取り、二人の生活に私がいなくても困らなくなったら、そのとき出ていけばいい。
そう話したら、玲は呆れた顔をした。
「ここ、賃貸じゃないんだから。好きなだけ住めないよ。時間になれば、迎えが来る」
私は半信半疑だった。三年間、玲の言う「向こう側の案内人」なんて一度も見ていない。
ただ、この数か月は変だった。急に意識が抜けることが増え、ほんの数分のときもあれば、気づけば半日近く過ぎていることもある。
眠っていた感じではない。
自分というものが、少しずつ薄くなっていく。
そんな感覚だった。
冷たい風が霊園を吹き抜けた。墓石に巻かれていたオレンジ色のマフラーが外れ、石畳を転がっていく。
「ちょっと、待って。それ、冬真が初めて編んだやつなんだから」
慌てて追いかけると、風が止まり、マフラーは道の端に落ちた。
拾おうとして手を止める。
端のほうに、小さなキャラクターのシールが貼ってあった。そのそばには、ごく薄い赤い跡がある。口紅に見えた。
顔を近づけると、甘い桃の香りまでした。
冬真は甘い香水が好きではないし、こんなシールを自分から貼る人でもない。病院で編んでいて、入院中の子供に貼られたのかもしれない。赤い跡だって、満員のエレベーターで誰かとぶつかっただけかもしれない。
それなら、この匂いは?
考えても分からなかった。
次に冬真が来たら聞いてみよう。
そのときは、そう思った。
4
日曜日は、冬真が陽向を連れてくる日だった。
朝から霊園の入口近くをうろうろしていると、通りかかった玲に笑われた。
「この前会ったばっかりじゃない」
「冬真を待ってるんじゃないよ。陽向」
玲は私の顔を覗き込むようにして、にやりとした。
「まだ小さい子みたいに言ってる。もう十歳でしょ。あと何年かしたら、真帆より大きくなるんじゃない?」
言い返しかけて、やめた。
三年前、陽向はまだ七歳だった。私の写真を抱えて、息が苦しくなるほど泣いていた子が、もう十歳になった。
遠くから黒い車が近づいてくる。冬真と陽向が降りた。
今日は、あの黒い古いコートではない。冬真は濃い茶色のウールコートを着ていて、陽向も厚いダウンジャケットに包まれている。いつの間にか肩幅まで少し広くなっていた。
二人はトランクから保温バッグを出し、墓石のそばにあるベンチへ向かった。
日曜の夜は、どれだけ忙しくても家族で夕飯を食べる。私たちが昔から決めていたことだ。
そもそも冬真が病院で働きすぎて、陽向と食事をする時間までなくしそうだったから、私が無理やり作ったルールだった。
先にその席からいなくなったのは、私だったけれど。
冬真が容器を開ける。
クリームシチューに唐揚げ、だし巻き卵。どれも私の好物だった。
幽霊に食事は必要ない。それでも懐かしい匂いだけで、少し満たされた気持ちになれる。
ただ、その日は二人とも妙に静かだった。
陽向は学校の話をしない。冬真も、いつものように「十歳の男の子を育てるのは大変だ」と愚痴をこぼさない。
食事が終わると、冬真は別の袋を取り出し、丁寧に包みを外して花束を墓石に立てかけた。
十一本の黄色い薔薇。
見た瞬間、胸が沈んだ。
二十六歳のとき、私たちはくだらない約束をした。大喧嘩をして、どうしても謝りたいときは黄色い薔薇を十一本。
理由なんてなかった。私が適当に決めた数字だった。
それでも二十年近く、私たちだけの合図になっていた。
冬真はしばらく黙っていた。
「真帆。これからは、陽向と二人でもうここには来ないようにする。いつまでも通ってたら、嫌がる人もいるから」
「誰が?」
私が思わず聞き返すと、陽向が膝の上の花束を抱え直した。少し迷うように俯いてから、墓前へそっと置く。
「お母さん。僕たちも、新しい生活を始めるね」
私はその場に尻もちをついた。
冬真が左手から指輪を外す。二十六歳で結婚してから、ほとんど外したところを見たことのない銀色のリングだった。
それを墓石の前へ置いたところで、電話が鳴った。
「うん。もう帰る。外で待たなくていいって、寒いから」
冬真は電話を切り、陽向の手を取る。
「行こう。待たせると悪い」
二人はそのまま霊園の出口へ歩いていった。
冬真は振り返らなかった。
私も追わなかった。
夕暮れの中で二つの背中が小さくなっていくのを見送ってから、長い間、墓前に残された指輪を眺めていた。
いつの間にか玲が隣にいる。
「真帆、泣いてるよ」
頬に触れると、指先が濡れた。自分でも少し驚いた。
「大丈夫。冬真には誰かいて、陽向にも新しい家族ができるんでしょ。いいことじゃん」
玲は何も言わず、私の横顔を見ていた。
少しして、私は霊園の門へ視線を戻す。
「前に言ってたよね。私、もうあまり時間ないんでしょ?」
「……うん」
答えを聞いてから、ゆっくり息を吐いた。
「じゃあ、もういいかな。私、行くよ」
5
玲はすぐに返事をしなかった。
しばらくしてから、こちらを見る。
「本当に?」
「うん」
玲は私の顔を確かめるように数秒見つめ、それから小さく息を吐いた。
「決めたなら、向こうに伝える。七日後には、ここを離れることになるよ」
なるべく軽い口調で笑った。
「ちょうどいいよ。ここ、もう飽きたし」
玲は笑わなかった。
「一つだけ変わる。自分から行くって決めた魂は、最後の七日間だけ霊園の境界に縛られなくなる」
「それ、今まで一回も聞いてないんだけど」
思わず睨むと、玲は悪びれもせず肩をすくめる。
「言ったら三年も大人しくしてないでしょ。行きたいところがあるなら行けばいいし、会いたい人がいるなら会えばいいよ」
冬真の顔が浮かんだ。
すぐに打ち消す。
それから二日間は、本当に何もしなかった。初日は木の枝に座って雲を眺め、翌日は墓石の周りの落ち葉を片づけて、そのままぼんやりしていた。
三日目になると、さすがに退屈に耐えきれず玲のところへ行った。
「ねえ、今日何の日か分かる?」
玲は私を見るだけで答えない。
「三年も隣にいるのに、誕生日忘れたの?」
私が頬を膨らませると、玲はようやく墓石の縁に腰を下ろした。
「覚えてるよ。ここで迎える最後の誕生日でしょ。何が欲しい?」
少し考える。
「星陵高校の近くにあったケーキ屋さん」
「そんなに好きだった?」
玲が首を傾げる。
「高校三年の誕生日に食べたから」
あの頃は受験前で、成績も落ちていた。誕生日なのに親と電話で喧嘩をして、放課後も一人で教室に残って勉強していた。
席へ戻ると、机の中に箱が入っていた。
苺のショートケーキ。
送り主は隠したつもりだったらしいが、カードの字を見た瞬間に分かった。
高槻冬真。
あんなに律儀で綺麗な字を書く男子は、クラスに一人しかいなかった。
「本当に不器用だったんだよ。自分で置いたくせに、その日ずっと知らない顔してた」
去年の誕生日は、冬真が墓石の前で歌を歌った。途中で自分が泣き出して、最後まで歌えなかった。
その前年は陽向と一緒に映画を見て、本人のほうが先に目を赤くしていた。
話しながら入口を見る。
もう昼に近い。
冬真は来ない。
玲が私の視線の先を見てから、静かに口を開いた。
「真帆。今日は来ないよ」
視線を落とす。
墓石のそばに、一枚の赤い招待状が置かれていた。先週、指輪と一緒に冬真が残したものだ。
ずっと見ないふりをしていた。
挙式日は今日だった。
「……そうだった」
小さく笑う。
「今日、結婚するんだ」
6
「まあ、本人が心配する必要ないけどね。今までここから出られなかったし、結婚式に押しかけることもできなかったから」
玲の口元がわずかに上がった。
「今はできるけど」
「……それ、言わないでよ」
私が睨むと、玲は面白そうに肩を揺らした。
「あと七日だけ。好きにすれば」
「誰が見に行くの。先週までマフラー編んで、病院の愚痴まで聞かせてたくせに急に結婚だよ。そんな薄情な人、もう知らない」
玲は何も言わずに私を見ている。
その目が腹立たしい。
「何、その顔」
「別に。私は何も言ってないけど」
玲が視線を逸らしたので、ますます居心地が悪くなった。
「行かないからね」
自分に言い聞かせるように吐き捨て、背を向ける。
「じゃ、ちょっと外に出てくる」
「どこへ?」
足を止めずに片手を振った。
「知らない。とりあえず、ここじゃないところ」
少し歩いてから振り返る。
「次があるなら、今度は百歳くらいまで生きたいな」
玲はさっきまでのからかうような顔をやめ、穏やかに笑った。
「生きられるよ」
その顔を見て、ふと思い出した。
「玲も一緒に行かない?」
「私はまだいい」
一度だけ霊園の奥を見てから、続ける。
「待ってる人がいるから」
三年間、玲の墓に誰かが来たところを見たことはなかった。
それ以上は聞かなかった。
門をくぐる直前、振り返る。
ずっと出たいと思っていた場所だったのに、本当に出るとなると少しだけ寂しい。
玲は遠くからこちらを見ていた。
見送りは嫌いだと言っていた。しんみりするから苦手だ、と。
たぶん本当は、近くまで来たら顔を見られたくないだけだ。
手を上げる。
玲も小さく手を振った。
7
幽霊に荷物はない。
霊園を出たあと、私はしばらく道路脇に立っていた。車が何台も目の前を通り過ぎていくのに、どこへ行けばいいのか分からない。
ちょうど止まった路線バスに乗り込み、一番後ろの窓際に座った。
大学前の停留所で、若い男女が乗ってくる。
女の子は席に座るなり肩をすくめ、手に息を吹きかけていた。男の子はすぐに自分の上着を脱ぎ、彼女の膝へ掛ける。
「これ、この前見た服と似てない?」
「似てる」
男の子はスマートフォンの画面を少し覗き込み、すぐに頷いた。
「でも、やっぱり前のほうが可愛かったな。刺繍も好きだったし」
「じゃあ、あっち買えば?」
女の子は一瞬うれしそうな顔をしたものの、すぐに値段を思い出したらしく眉を下げる。
「八千円以上するよ」
男の子はそんな彼女の髪を軽く撫でた。
「じゃあ買おうよ。八千円でそんなに喜ぶなら安いもんでしょ」
「何それ」
呆れたように言いながらも、女の子は笑って彼の肩にもたれた。
二十分ほどして眠ってしまったあと、男の子は彼女を起こさないよう静かにスマートフォンを開いた。残高を確認してから、家庭教師センターから来ていた週末の仕事の依頼へ返信する。
少し迷ったあと、引き受けると送っていた。
その横顔を見ていたら、十七歳の冬真を思い出した。
8
誕生日のケーキが冬真からだと気づいてから、私は毎日のように理由をつけて話しかけた。
「高槻君、この問題分からない。教えて」
「今日、食堂に新しいメニュー出たらしいよ。一緒に行かない?」
それでも冬真は、ノートから目を上げるだけだった。
翌日の実験でも同じ班になると、懲りずにまた声を掛けた。
「また実験同じ班だね。すごくない?」
冬真はいつも丁寧で、少しよそよそしかった。その代わり、毎日のように彼へ質問していたせいで成績は上がった。
高校を卒業する頃になっても、私たちは「少し仲のいいクラスメイト」のままだった。
卒業式の日、みんなでカラオケへ行った。帰る頃には夜になっていて、私は廊下で冬真を呼び止めた。
ずっと我慢していたものが、そこで切れた。
「高槻君って、ずっと待ってもらえると思ってる? 毎日こっちから話しかけてるのに、何とも思わないの?」
言ってから、少し息を整える。
「一人で好きでいるの、結構疲れるんだけど」
冬真は目を丸くしたあと、一度だけ視線を下げた。
「一人じゃない」
「何が?」
問い返すと、冬真はゆっくり顔を上げた。
薄暗いカラオケの廊下だったのに、あの日の彼の目だけはよく覚えている。
「白石。俺も好きだよ」
付き合い始めてから、その話を何度も蒸し返した。
「だったらもっと早く言ってよ。何で私が怒るまで黙ってたの?」
冬真は私の頭を軽く叩いた。
「怒ってるときのほうが、いつもの真帆っぽいから」
両親に交際が知られたときは、すぐには賛成してもらえなかった。
冬真は母親一人に育てられ、これから医学部へ進む予定だった。私たちには仕事もなければ、経済的な余裕もない。
「医者になるまで何年かかると思ってるの」
母は珍しく強い口調だった。
「好きなのは分かるけど、生活は別でしょう」
両親が心配していたのは、私たちの先の見えなさだった。
大学は同じ街の別々の学校へ進んだ。私はメディア系の学部、冬真は東雲医科大学。
「本当に医者になったら、ご両親も少しは安心するだろ」
まだ高校を卒業したばかりなのに、冬真は何年も先の話を真面目にしていた。
大学生活は、お互い忙しかった。私は取材実習や学生制作で外へ出ることが増え、地方へ行くときは深夜バスも使った。冬真は授業や実習、研究室に追われていた。
雪景色を見つければ写真を送り、冬真はコンビニのおでんを食べながら「風邪ひくなよ」と返してくる。
私が夜行バスを待っている頃、彼は実験結果を待っていた。
時間なんて、いつも足りなかった。
それでも余った分は、なるべく互いに使った。
9
卒業後、私は朝凪市内の報道系制作会社へ入った。冬真も医師国家試験に合格し、研修医として働き始めた。
最初の数年は余裕なんてなく、五十平方メートルにも満たない部屋を借りて暮らした。冬真は朝早く出て、私は夜遅く帰る。
彼が朝食を作り、冬真が当直の日には私が差し入れを持っていった。時間が合えば駅まで迎えに来てくれた。
二十六歳で結婚した。
結婚後も、仕事では旧姓の白石を使い続けた。
二人で頭金を出し、朝凪市内に小さなマンションを買った。結婚式は郊外のガーデン会場で挙げ、花もテーブルカードも会場装飾も、ほとんど二人で選んだ。
そのとき、二十五周年になったら小さな式をもう一度やろうと話した。
「夕暮れの森みたいなのがいいな」
「じゃあ、その頃までにピアノ弾けるようになって」
私が当然のように言うと、冬真は呆れた顔をした。
「無茶言うなよ」
二十八歳で陽向が生まれた。
その頃には、両親も少しずつ冬真を受け入れてくれていた。私たちが忙しいときには、よく子育ても手伝ってくれた。
ある夜、冬真が当直明けに帰ってきた。
私と陽向を起こさないよう、静かにベッドの横へしゃがむ。
目が赤かった。
「真帆。俺、情けないな。こんなに長く一緒にいるのに、まだ楽させてやれてない」
私は彼の耳の後ろに混じった白髪をつまんだ。
「何歳で白髪生やしてるの。高槻先生も、そろそろおじさんだね」
冬真は眉を寄せ、私の手を払った。
「うるさい」
その顔がおかしくて笑った。
三十五歳になる頃、冬真は朝凪中央医療センターの医長になっていた。高校時代の無口な優等生は、いつの間にか人から頼られる医師になっていた。
その年の冬、二人で車に乗って帰宅する途中だった。
前夜の雪が残り、路面の一部が凍っていた。対向車線を走っていた大型トラックが横滑りし、車体がこちらへ向かってくる。
冬真が私に覆いかぶさった。
激しい衝突音とともにガラスが砕け、視界が赤く染まった。
そこで私の記憶は切れた。
そのあと三年間、私は死んだのが自分だと思っていた。
10
バスが急ブレーキを踏み、現実に引き戻された。
さっきの二人はもう降りていて、車内から見えるのは朝凪市の中心部だった。道路がひどく混んでいる。
「今日すごい渋滞ですね」
「この先のホテル、最近結婚式で人気なんですよ。今日も式やってるみたいですよ」
乗客の会話につられて窓の向こうを見る。
ホテルの入口に、白い花とグリーンで作られたアーチがあった。その脇にウェルカムボードが置かれている。
Groom 高槻冬真
Bride 麻帆
呼吸なんて必要ないはずなのに、息が止まった気がした。
麻帆。
読み方は、真帆と同じ。
しばらく座ったまま見ていた。
それでも結局、バスを降りた。
行くつもりなんてないと言いながら、ホテルの案内板をたどっている。
会場は広かった。天井から蔦と白い花が垂れ、照明は夕暮れのように落としてある。
森の中にいるようだった。
入口で立ち止まる。
二十六歳の頃に話していた、銀婚式の会場に似ていた。
「二十五年後もウェディングドレス着る気?」
「着るよ。冬真もちゃんとピアノ弾いてね」
私が即答すると、冬真は半分呆れたように笑った。
そんな話をした。
ずっと先の約束だった。
目の前では、それが今、別の誰かとの結婚式として形になっている。
招待客はそれほど多くない。
久世航平の姿がないことには、すぐ気づいた。
私たちの結婚式では酔っぱらって冬真の肩を組み、
「おまえ、真帆泣かせて別の女と結婚式なんかしたら、俺は絶対行かないからな」
と笑っていた。
冗談ばかり言う人だった。
でも、その言葉だけは守ったらしい。
音楽が流れた。
冬真が式場中央へ立ち、向こうから白いドレスを着た若い女性が歩いてくる。
物静かな印象の人だった。
司会者が二人を見る。
「高槻冬真さん。これから先、麻帆さんを人生の伴侶として大切にし、どんなときも共に歩んでいくと誓いますか」
「誓います」
司会者は一度頷き、もう一つ問いかけた。
「これからも、麻帆さんを支え続けていくと誓いますか」
冬真は隣の女性を見て、わずかに笑った。
「はい。麻帆となら、この先もずっと歩いていけます」
11
指輪交換では、陽向がリングピローを運んだ。
私は後ろのほうから、冬真が麻帆の指へ指輪を通すのを見ていた。
近くを通ったとき、淡い桃の香りがした。
あのマフラーと同じ匂いだった。
「新婦さん、ずっと喋らないね」
「声が出せないらしいよ」
後ろの席から、そんな囁き声が聞こえた。
間もなく冬真がマイクを持つ。
「麻帆は声が出せません。なので、今日は僕からお礼を言わせてください。来てくださって、本当にありがとうございます」
披露宴の途中で照明が落ち、白いピアノにスポットライトが当たった。
冬真が座る。
私は思わず前へ出た。
彼がピアノを弾くところなんて見たことがない。若い頃に何度も「覚えてよ」と言ったけれど、そのたびに「医者の手は忙しいんだ」と逃げられた。
けれど、鍵盤の上を動く指は慣れていた。
流れてきたのは、昔二十五周年で弾いてほしいと頼んだ曲だった。
演奏が終わると、冬真は麻帆の隣へ戻り、その手を取った。
「麻帆はピアノの音が好きなんです」
少し照れたように視線を落とす。
「今日、やっと一つ願いを叶えられました」
胸の奥に何かが沈んだ。
あの頃の私は、別の人のために約束を叶えたのだと思った。
12
翌朝、冬真は病院へ向かわなかった。
陽向を学校へ送ったあと、麻帆と空港へ向かう。行き先は、北欧の北極圏近くにあるノルヴィクという町だった。
私も二人についていった。
最後の七日間に入ってから、距離というものがほとんど意味を持たなくなっていた。冬真について行きたいと思えば、景色が次へ繋がっていく。
その頃は、それを死ぬ前に与えられた短い自由くらいにしか考えていなかった。
飛行機の中で麻帆が眠ると、冬真は彼女の膝に掛かったブランケットを直した。
ノルヴィクに着いたあとは、オーロラツアーへ参加した。
雪道を歩きながら、冬真は何度も隣を気にする。
「寒くない?」
麻帆は笑って首を振る。
観測地へ向かう途中、傾いた小さな木造の建物があった。古い看板には「時の郵便局」と書かれ、隣には塗装の剥げた郵便ポストが立っている。
ガイドが足を止めた。
「このポストには、昔から言い伝えがあります。ここから出した手紙は、どこにいる相手にも、いつか必ず届くそうですよ」
観光客たちは顔を見合わせた。
「子供向けの話みたいだね」
「本当に届いたら、ちょっと怖いな」
軽い笑いが起きる。
私はその場に立ち止まった。
夜になると、緑色の光が空いっぱいに広がった。黒い空を、薄い布がゆっくり揺れているようだった。
ずっと見たかった景色だった。
仕事が落ち着いたら。来年こそ。
何度もそう言って、結局一度も来なかった。
下山後、冬真は麻帆を町のレストランへ連れていった。
英語で店主と話している。
「綺麗な奥さんですね」
そんな意味のことを言われ、冬真は笑って礼を言った。
大学を出たばかりの頃、北欧出身の人を取材したことがある。取材後に「いつか旅行に来てください」と言われたと話したら、冬真が妙に不機嫌になった。
「知らない人と簡単に約束するなよ」
「仕事相手だよ」
私が笑うと、冬真は納得していない顔で視線を逸らした。
「それでも。……まあ、旅行は行こう。いつか時間できたら、俺も一緒に行く」
何年も経って、その約束は叶った。
当時の私は、隣にいる相手だけが変わったのだと思っていた。
13
帰国予定の日、ノルヴィクは大雪になった。
便が次々と遅れ、冬真は何度も時間を確認しては職員へ運航状況を尋ねていた。麻帆は待合スペースで静かに座っている。
翌日の昼過ぎ、ようやく朝凪へ戻った。
私に残された時間は、十二時間を切っていた。
午後、冬真は麻帆を映画館へ連れていく。
再上映された古い映画、『冬海』。
私たちも若い頃に一緒に見た。
当時、私は冬真の肩を濡らすくらい泣いた。
「真帆。俺まだ死んでないんだけど」
「映画で泣いてるの」
涙を拭きながら言い返すと、冬真は肩を震わせた。
「葬式みたいな泣き方するなよ」
「じゃあ次に再上映されたら、もう一回一緒に見よう。冬真が泣くか確認するから」
そう言うと、今度は本気で呆れた顔をされた。
映画館を出ると、今年最初の雪が降っていた。
商業施設の前で、若い男性がギターを弾いている。
冬真が足を止め、花屋で小さな薔薇の花束を買ったあと、その青年へ声を掛けた。
「結婚したばかりなんです。妻に一曲だけ歌いたくて」
少し話したあと、ギターを借りる。
周囲に人が集まり始めた。
冬真が歌ったのは、昔、私の誕生日にも歌ったことのある『振り返らないで』という曲だった。
二年前は途中で本人が泣いてしまい、最後まで歌えなかった。
今度は最後まで歌った。
過ぎた場所へ戻らず、前を向いていく。
そんな歌だった。
雪が、冬真のマフラーに積もっていく。
オレンジ色。
あの手編みのマフラーだった。
涙が頬を伝った。
「冬真。ちゃんと幸せになってね」
人混みの外からそう呟き、背を向ける。
何歩か歩いたときだった。
「真帆!」
冬真の声がした。
足が止まる。
三年間、まるで私に直接呼びかけたように聞こえたことは何度もあった。
でも、今の声は違った。
それでも振り返らなかった。
冬真には、もう麻帆がいる。
そう信じていたから。
14
次に意識を取り戻したとき、規則的な機械音が聞こえた。
目を開くと、そこにあったのは白い天井だった。
病院。
ベッド脇には生活用品が置かれ、窓辺には少し萎れたヒマワリが飾られている。
何が起きているのか分からないまま周囲を見回していると、聞き覚えのある声がした。
「真帆。起きた?」
「玲? ここ、どこ?」
勢いよく顔を動かしたが、誰もいない。
少し間があった。
「病院。三年前の事故で、真帆は死んでないよ。大怪我して、それからずっと意識が戻らなかった」
言葉が出なかった。
「三年……?」
「うん。三年」
玲の返事を聞いた途端、頭の中に霊園の景色が次々と浮かんだ。
「じゃあ、私……ずっと昏睡してたの?」
冬真の顔が浮かぶ。
「冬真は? ずっと看病してたんでしょ?」
結婚式の光景まで蘇り、声が少し強くなる。
「それなのに、私の夢の中で別の人と結婚までして……」
「真帆」
玲の声が静かに遮った。
「一つだけお願いしていい? 久世航平のこと。この先、いい人が現れたら背中押してあげて。ずっと一人でいなくてもいいって」
あまりに唐突で、眉を寄せた。
「何で急に航平?」
そのとき、病室の扉が開いた。
久世航平が立っていた。
三年前より痩せた気がする。
私と目が合うと数秒固まり、そのまま足早にベッドへ近づいてきた。
「……真帆? 本当に起きたのか?」
何度も顔を確認したあと、ようやく息を吐く。
「高槻のやつ、ほんとに化けて出てるんじゃないだろうな」
胸が冷たくなる。
「冬真は?」
航平の表情が止まった。
少し迷ってから、椅子を引く。
「昨日も夢に出てきた。真帆がそろそろ起きるから、退院したらちゃんと面倒見ろってさ」
苦笑しながら、視線を落とした。
「無視したら死んでも許さないって。もう死んでるくせにな」
耳の奥で衝突音が鳴った。
忘れていた場面が戻ってくる。
トラック。
砕けたガラス。
私を庇う冬真。
顔に流れる血。
呼吸もほとんどできていなかった。
「真帆。約束して」
冬真は苦しそうに息を継いだ。
「生きて」
目を閉じた。
三年前、あの事故に残されたのは冬真だった。
15
航平の前で泣き崩れたくなくて、窓際へ視線を逃がした。
「ヒマワリ、航平が持ってきたの?」
「俺以外に誰がいるんだよ。高槻が最近ずっと夢でうるさいんだ」
航平は窓際の花を見て、げんなりした顔をした。
「真帆が目を開けたとき、ヒマワリがないと嫌だとか」
喉が詰まった。
少しして、玲のことを思い出す。
「航平。水城玲って、知ってる?」
ほんの一瞬、動きが止まった。
「昔の知り合い。それだけ」
短く答えたあと、航平はすぐに目を逸らした。
それだけなら、そんな顔はしない。
航平は「先生呼んでくる」と立ち上がり、病室を出た。
扉が閉まる。
玲が小さく笑った。
「それでいいよ」
「玲。航平、忘れてないよ」
返事がないので、もう一度呼びかける。
「あの人、ずっと待ってたんじゃないの?」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、玲が静かに口を開く。
「真帆。私も、そろそろ行くね」
「玲?」
一瞬だけ、あの墓園で見た玲の笑った顔が浮かんだ。
「今度こそ本当にお別れ。だから、もうこっちのことは振り返らなくていいよ」
「待って、玲――」
呼び止めたけれど、返事はなかった。
体が少し回復してから、航平に玲のことを聞いた。
昔、付き合っていた人だった。
家の事情もあり、二人は周囲に隠れて会っていたらしい。ある日、山間部の観光地で待ち合わせをしたが、航平は家の都合で遅れた。
その間に小規模な崩落事故が起きた。
玲は戻らなかった。
「それから会ってない」
航平はそれ以上話さなかった。
けれど、彼が毎年あの待ち合わせ場所へ行っていることを後になって知った。
玲は朝凪霊園で、「待ってる人がいる」と言っていた。
二人の待つ場所は、最後まで重ならなかった。
16
退院後は、しばらく両親の家で暮らした。
三年間動かなかった体は、自分のものとは思えないほど弱っていた。数か月で元通りになるはずもない。
ある日、近くへ出張に来た航平と、家のそばのカフェで会った。
話しているうちに、冬真の夢の話になった。
「高槻、本当にしつこかったからな。一回なんて、女性の姿を借りられる依代を用意してくれって言われた」
航平はコーヒーカップを置き、当時を思い出したのか眉を寄せる。
「しかも、わざわざ女の人の形でって」
手が止まった。
桃の香り。
声の出ない新婦。
私と同じ読み方の名前。
麻帆。
「そういうことだったんだ」
「何が?」
航平が怪訝そうにこちらを見る。
「ううん」
もう説明されなくても分かった。
麻帆は、冬真が愛した新しい女性ではなかった。
私にそう信じさせるための依代だった。
年末、海外から小包が届いた。
送り元はノルヴィク。
時の郵便局。
中には手紙が一通だけ入っていた。
封筒の字を見た瞬間、冬真だと分かった。
震える手で開く。
最初の一行には、こう書かれていた。
――三十八歳の真帆へ。
冬真は、死んだあと陽向がずっと私を探していたことから書き始めていた。最初は「お母さんは長い出張に行っている」と誤魔化したらしい。けれど墓参りに来たとき、大人たちの会話から事故のことを知ってしまったという。
そこから先は、冬真らしい、飾り気のない文章だった。
事故のとき、俺は真帆を庇ったのを覚えてる。だから霊園に真帆が現れたとき、すぐ分かった。ここにいるべきなのは俺で、真帆じゃない。
見えてるって言えなかった。真帆が肩に寄ってきても、抱きしめるわけにはいかなかったし、話しかけられても独り言のふりをした。だって、真帆は知ったら絶対に帰らないだろ。
文字が滲んだ。
三年間、夫婦だから息が合うのだと思っていた。
違った。
冬真はずっと、私を見ていた。
手紙は続く。
陽向が時々こっちにいたのも、本当に死んでたわけじゃない。墓参りに来たときや、強く俺のことを思い出したとき、その気持ちが境目に映ってたみたいだ。
日曜日に三人で飯を食おうって決めたのは、俺と陽向だ。でも、ずっとあそこにいさせるわけにはいかなかった。陽向には母親が必要だし、ご両親だって真帆が目を覚ますのを待ってる。
陽向を産んだとき、一度死にかけたのに。今度は俺が寂しいからって、真帆まで連れていくなんてできない。
玲にも、何も言わないでくれと頼んだ。
麻帆という依代を用意したのも、そのためだった。
新しい人ができたと思えば、真帆は怒るだろうけど、それでも俺を置いて行けると思った。麻帆は、そのためだけに作ってもらった。
自分から帰ると決めれば、霊園の外へ出られる。
そして、最後の七日間についても書かれていた。
玲は、あれを「境目の道」って呼んでた。現実にある町やホテル、飛行機の姿を借りることもあれば、俺たちの記憶が混ざることもあるらしい。
だからあの七日間だけは、俺も真帆と同じ場所を歩けた。
結婚式も、オーロラも、レストランも、映画も、初雪も、全部、若い頃に話したまま叶えられなかったことだ。
二十年分、思いつく限り書き出した。
七日しかなかった。
やっぱり短かったな。
最後の数行は、何度読んでも文字が見えなくなった。
もし三十八歳の真帆が、この手紙を受け取ってくれたなら、一つだけ訂正したい。
この三年間、一度も触れられなかったわけじゃない。
何度も抱きしめた。
真帆が気づかなかっただけ。
17
それから毎年、ノルヴィクへ行った。
少し傾いた木造の建物まで歩き、冬真への手紙を古いポストに入れる。届くかどうかは分からない。それでも、あの郵便局には「ここから出した手紙は、相手がどこにいても、いつか届く」という言い伝えがあった。
三十九歳の年は、一人でライブに行ったことを書いた。最後に『振り返らないで』が流れたけれど、泣かなかったと。
四十歳では、高校の同窓会へ行ったことを書いた。冬真のことを聞かれたから、「ちゃんと立派な医者になったよ」と答えた。
四十一歳の冬は、昔好きだった映画を何本も見た。『冬海』も見たけれど、今度は泣かずに笑って見られた。
四十五歳になると、陽向が大学に受かった。年々冬真に似ていくのに、性格だけは父親より少し素直で、会いたいときはちゃんと「会いたい」と言う。
五十歳の年には、陽向に好きな人ができた。初めて家に連れてくる前日の夜、何を着ればいいか何度も聞いてきて、恋愛になると父親より不器用なのかもしれないと思った。
五十六歳で母を見送った。
その日は墓地で長いこと泣いた。
帰る頃になって、冬真が昔言っていたことを思い出した。
死ぬのって、思っているほど怖くないのかもしれないね。
そんなことも手紙に書いた。
毎年、一通。
手紙は増えた。
冬真から返事は来なかった。
それでも書いた。
ある静かな午後、机の上に一通の手紙が残っていた。
宛名は冬真。
今年は、時の郵便局まで行けそうにない。
先生に、あまり遠くへ行くなって言われた。
でも、いいかな。
今度行く場所は、たぶんノルヴィクより遠いから。
窓の外では、白い山桜が咲いていた。風が吹くと花びらが一斉に落ち、遠くから見れば淡い雪のようだった。
その手紙が、時の郵便局へ投函されることはなかった。
私はふと、ひとつの光景を思い浮かべた。
どこかにある扉が開く。
向こう側で冬真が顔を上げる。
入ってきた私を見たまま、しばらく何も言わない。
それから少しだけ笑う。
「……久しぶり」




