法衣貴族の死因について――葬儀屋は裁かない
本作は、死因を確定する物語ではありません。
解剖・供述・現場の記録から、複数の可能性が提示されます。
葬儀屋ヴァーニスは真相を裁かず、ただ記録します。
その結果として残るものが、必ずしも「正解」とは限りません。
「頭蓋を開けて欲しい」
「開けられるわけなかろう!」
筆頭執行官は机を叩いた。
「権限解剖は認めた。それですら貴族連中から抗議が来ているんだ。これ以上は無理だ」
「娘が望んでいる」
「だから無理だと言っている!」
怒声に部屋が震えた。
エリスは唇を噛む。
「父は殺されたかもしれないんです」
「死因は心不全だ」
「でも――」
「証拠はあるのか?」
ヴァーニスは答えなかった。
証拠があれば、こんな場所へ来ていない。
頭蓋を開けてくれと頼む必要もない。
法衣貴族アドルフ・ベルナール伯爵が死んだのは三日前の朝だった。
晩餐では魚の香草焼きとドワーフの火酒が供され、仔牛の煮込みを平らげたあと、いつものように葉巻をくゆらせた。
そして寝室へ向かった。
翌朝、死んでいた。
それだけだ。
「食道、胃、腸、その他の臓腑に毒殺の兆候はない。話は終わりだ」
「だが、脳が冒されている可能性が――」
「もういい。お前たちは狂っている。次だ」
執行官はもう書類をめくっていた。
エリスが膝から崩れ落ちかける。
それを後ろの侍女が、吸い付くような手付きで慌てて支えた。
ヴァーニスは閉まった扉を見た。
向こうでは次の案件が始まっている。
伯爵の死は、もう終わった話になっていた。
☆
白葬舎の窓を雨が叩いていた。
処置室の寝台に伯爵の遺体が横たわる。
「エドガー、ビヨンドン。もう一度だ」
「先生、もう十回は見ましたよ」
「昼に九回だ」
「同じです」
「夜は死人の機嫌が違う」
エドガーが嫌そうな顔をするが、新入りのビヨンドンは素直に頷く。
ヴァーニスは袖を捲る。
「擦過傷、小さな内出血多数。死斑が強くて分かりにくい」
「昼と変わらないようです」
「……先生?」
ヴァーニスはランタンをさらに近づけ、伯爵の肩を掴んだ。
「ビヨンドン。左を下に」
「はい」
巨体の弟子が遺体を支える。
「エドガー」
「はい」
「打撲痕だけ描け」
「傷だけですか?」
「全部はいらん」
炭筆が走る。
右肩。
右肘。
右腰。
右膝。
右つま先。
その間に紛れるように左腕と左脹脛。
紙の上へ傷が並んでいく。
「先生」
ビヨンドンが声を上げた。
「気づいたか」
「右側ばっかりです」
ヴァーニスは人体図の真ん中に線を引いた。
「右側が機能していない」
「転んだ?」
「それだけなら話は早い」
今度は左目を中心に円を重ねて描く。
肩から肘、指。
脇腹から膝。
そしてもっとも傷が多い足先。
外へ行くほど傷が増えている。
エドガーが首を傾げた。
「何なんです?」
「視野だ。中心は見えるが、外側が見えていない」
「え?」
ヴァーニスの煙に巻くような即答に、弟子たちは顔を見合わせた。
そして遺体を見る。
「だから気に入らないのだ」
「先生?」
「心不全、か」
静かな声だった。
「人間、死ぬ時は誰だって心臓が止まる」
☆
ベルナール邸は葬儀の準備で慌ただしかった。
使用人が走り回り、白葬舎の人員が生花を運び込む。
白百合、オリエンタル・リリー。
アルストロメリア、ジャスミン、カスミソウ。
季節を無視して集められた、最高級の温室ものだ。
屈指の財力が、白く飾られていく。
ヴァーニスは、むせ返るような花の香りに眉をひそめた。
死人は花が好きだと思われている。
だいたい生きている連中の思い込みだ。
「次の使用人を」
庭師が露骨に顔をしかめた。
だがエリスを見ると態度を引っ込める。
「悪いけど呼んでもらえる?」
「……はい。お嬢様」
洗濯メイドのアンが呼ばれた。
「早速だが――」
「お待ちなすって」
声が割り込んだ。
空気が変わる。
黒い喪服に真珠だけが白かった。
部屋へ入った瞬間、使用人たちの背筋が伸びる。
「伯爵夫人、この度は―――」
「葬儀屋、飾り付けは終わりましたの?」
「夕方には」
「なら結構」
夫人はエリスへ視線を向けた。
「部屋へ戻りなさい」
「……お義母様」
二人は視線を交わしたまま、どちらも動かない。
エリスの後ろに控えていた侍女が、主人の身体を隠すように一歩前へ出た。
ヴァーニスが口を開く。
「奥様。少々」
「手短に」
「最近、ご主人は震えやつまずき、壁にぶつかることが増えたそうですね」
「歳のせいよ」
即答だった。
「文字も追えなくなって、最近は本すら読まなくなったわ」
夫人はうんざりしたように言った。
「夜中も起きて、窓の外に誰かいると言うのよ」
「いつ頃からです?」
「天蓋へ幕を増やした頃です」
答えたのは、前へ出た侍女のマルタだった。
「半年ほど前になります」
「よく覚えている」
「旦那様のことでしたから」
ひとつなら老化で済む。
ふたつでも偶然と言えなくはない。
だが三つ揃えば話は別だ。
ヴァーニスは静かに手帳を閉じる。
「主人は病死です。調べたければ好きになさい」
夫人は踵を返した。
エリスはなおも何か言いたげだった。
だが侍女がそっと肩へ手を置く。
「お嬢様」
その一言で、エリスは口を閉ざした。
背中を見送りながら、ヴァーニスはふと口を開いた。
「知っていたのですか?」
夫人の足が止まる。
「何を?」
「法衣貴族は開頭解剖できないと」
夫人は振り返らない。
「さあ」
それだけ言って去っていった。
☆
「客間にするべきです!」
「奥様のご指示です」
エドガーとマルタが言い合っていた。
寝室には次々と生花が運び込まれている。
甘ったるい香りが鼻につく。
「どうみても寝台が邪魔でしょう!」
「片付ければ済みます」
駆けつけたヴァーニスは口を挟んだ。
「エドガー」
「はい」
「与えられた場所でやるんだ」
「……わかりました」
弟子たちがぶつぶついいながら天蓋を外し始める。
「変ですね」
部屋を片付けていたメイドのひとりが文鎮を見ていた。
「どうしたの?」
「これ、こんな色でしたっけ」
真鍮のドラゴンだった。
鱗の一部が白く曇っている。
「先週、私磨いたんだけど」
メイドの会話がヴァーニスに入ってきた。
彼はその文鎮を手に取り、眺めまわす。
「……」
爪で擦ると白い粉が付いた。
「他にもありますか」
「え?」
「金属を探してください」
使用人たちは分けも分からず、だが意図を持って探し始めた。
鈍色の燭台。
銀時計とペーパーナイフ。
飾り盾。
どれも同じように白く曇っている。
「これは……綺麗ですね」
メイドが大事そうに抱えてきた香炉だけが妙だった。
「これはどこに?」
彼女は寝台脇の教卓を指した。
磨いたというより洗ったかのように、輝いている。
ヴァーニスはしばらく眺めていたが、絞るように口を開いた。
「エリス嬢を呼んでほしい」
☆
娘の告発をうけて、珍しくその日のうちに執行局が動いた。
「夫人を拘束した」
筆頭執行官は機嫌が良かった。
「香炉の中から少量だが水銀が見つかってな。夫人の部屋からもだ」
「本人は?」
「自分のは白粉用だとさ」
鼻で笑う。
「聞き込みも中毒症状と合致している。綺麗に繋がった」
彼はそう言った。
その言葉が、ヴァーニスの喉元に細い刺のように引っ掛かる。
磨かれすぎた香炉。
白く曇った金属。
白粉と水銀。
あまりにも辻褄が合いすぎている。
完璧な絵画をみているかのよう。
だが、人が死ぬ時は、大抵もっと汚いものだ。
「認めたのか?」
「まさか、認めるわけなかろう。とてつもない遺産だぞ」
「……あの女には、妙な自信があった」
「ん?」
「夫人は私に、好きに調べろと言い放った」
ヴァーニスは、立ち去り際のあの夫人の冷たい顔を思い出す。
あれは絶対の自信ではない。――事実無根の人間が浮かべる拒絶にみえた。
「事件は終わりだ」
執行官は、もう興味を失ったように去っていく。
静寂の中、ヴァーニスと、無言だった娘と侍女が取り残される。
「お嬢様……」
マルタがエリスの肩をそっと抱く。
「大丈夫よ」
か細い身体を優しく支えるマルタは、母親のようだった。
「ヴァーニスさん」
エリスが顔を上げた。
「なんでしょう」
「葬儀は予定通りに、行ってください」
「……よろしいのですか?」
「私は……問題ありません。よろしくお願いいたします」
ヴァーニスは一礼し、客間を出てふたたび寝室に向かった。
窮屈に並べられた椅子に腰かける。
混ざった花の匂いが鼻を衝く。
香炉ではない。
水銀でもない。
葬儀屋としての本能が、別の違和感を捉えていた。
なぜ、この寝室を式場に指定した。
客を入れる場所はいくらでもある。
それなのに、わざわざここだ。
思い出? 愛?
――違う。
見せたいのではない。
消したいのだ。
誰かがこの部屋から、大急ぎで。
☆
葬儀当日の朝は、よく晴れていた。
昨夜までの雨が嘘のように空は青い。
ベルナール邸の門前には弔問客の馬車が列をなし、法衣貴族の死を悼む者たちが次々と訪れていた。
聖堂関係者。
孤児院の院長。
炊き出しを受けていた老人たち。
それに加え、興味本位、噂好きな貴族もわんさかやってきた。
アドルフ・ベルナールは、多くの人間に慕われた男だった。
だが、向向けられる愛が深いほど、その裏には深い影が落ちる。
ヴァーニスは黒服のまま会場を見渡した。
伯爵の寝室は、すでに葬儀場へ姿を変えている。
壁際へ寄せられた家具。
白折々の花輪。
祈りの台と無数の蝋燭。
部屋の中央には棺が置かれ、その周囲を弔問客が花を捧げ、静かに行き交っていた。
そして、かつて伯爵が眠っていた天蓋付きの寝台は解体され、支柱も幕も寝具も、すべて別室へ運び出されている。
その光景を眺めながら、ヴァーニスは視線の端で忙しなく指示を飛ばす侍女の姿を捉えた。
「回収屋が来ていますが……」
「昨日倉庫に移したものを処分させて」
「……今日はさすがに―――」
「濡れていますから」
何気ない一言だった。
だが、ヴァーニスの眉がわずかに動く。
近くにいたエドガーが首を傾げた。
「先生?」
「今、聞いたか」
「何をです?」
「侍女の言葉だ」
二人は作業中の使用人たちへ目を向けた。
濡れているから処分する。
確かにそう言った。
昨夜は雨だったのだから、不自然な話ではない。
それでも胸の奥に小さな棘が残った。
エドガーに短い指示を飛ばす。
葬儀は滞りなく終わった。
鐘が鳴り、祈りが捧げられ、馬車までの葬列が組まれる。
棺は馬車に載せられ、墓地へ向かう。
エリスは最後まで涙を見せなかった。
ただ一度も棺から目を離さず、その後ろを歩き続けた。
埋葬が終わる頃には日も傾き、弔問客たちも次々に帰路につく。
屋敷へ戻った頃には、誰の顔にも疲労の色が浮かんでいた。
「先生、帰りましょう」
エドガーが声をかける。
だがヴァーニスは首を振った。
「先に戻れ。確保はできたか?」
「……はい。来週の回収です」
「寝台を見てくる」
エドガーは半ば呆れたように息を吐いた。
ビヨンドンはなんだか嬉しそうだ。
「まだ終わってないんですか」
「ああ」
ヴァーニスは短く答えた。
「まだだ」
倉庫には解体され、回収されなかった寝台が積み上げられていた。
ヴァーニスは天蓋の幕を広げる。
まず鼻をついたのは百合の香りだった。
葬儀のために持ち込まれた花々の匂いが布へ染みついている。
だが、その奥に別の臭いが残っていた。
ごく微かに。
意識しなければ気付かないほど弱く。
焦げた穀物のような香り。
蒸留酒特有の重い匂い。
麦だ。
ヴァーニスはゆっくりと幕から顔を離した。
「……」
枕や毛布も臭う。
誰かが大量の酒をこぼしたような残り香だった。
再び寝室へ戻る。
葬儀を終えた部屋は静まり返っていた。
すでに夕陽は沈み、燭台が灯されている。
ヴァーニスは寝台が置かれていた場所へ歩み寄った。
床の色が違う。
長年家具が置かれていた跡とは別の違和感。
膝をつき、指先で床板をなぞる。
焦げ目のような黒ずんだ円形の痕が残っていた。
何か金属製の器を置き、熱せられた跡だ。
さらにその近く。
床板の継ぎ目に染み込んだ水跡が見えた。
木がわずかに膨らんでいる。
雨ではない。窓から吹き込んだ水でもない。
もっと局所的で、不自然な濡れ方だった。
ヴァーニスはしばらくその跡を見つめていた。
焦げ跡。
水跡。
そして幕に染みついた酒の臭い。
別々だった違和感が、ゆっくりと一つの形を取り始める。
「なるほど」
小さく呟いた。
思わず笑いそうになる。
水銀ではないく、犯人はもっと単純で、もっと確実な方法を選んだのだ。
閉ざされた天蓋から垂らされた幕。
処分を急がれた寝台と濡れた部材。
そして、焦げた穀物の匂い。
すべてが鮮明に脳裏に浮かぶ。
散らばっていた欠片が音を立てて噛み合った。
ヴァーニスは静かに立ち上がる。
もう頭蓋を開く必要はない。
真実は伯爵の頭の中ではなく、この部屋に残されていた。
「――開頭など、必要なかったな」
☆
翌週、ヴァーニスは関係者を寝室に呼び出した。
苛立ちを隠せない筆頭執行官。
エリスと侍女のマルタ。
伯爵をよく知る使用人たち。
衛兵が彼らを囲む。
「おい、ヴァーニス、これはなんだ? 事件は片付いたんだぞ」
「筆頭殿、夫人の供述調書はお持ちいただきましたか?」
彼は机の上に書類束を放った。
事前にエドガーが指示を受けていたらしく、該当ページを見つけるとヴァーニスの口角が上がった。
「では皆さん」
ヴァーニスは移動し、床の焦げ跡をなぞった。
「結論から言いましょう」
短く、そう言った。
「伯爵を殺したのは水銀ではありません」
執行官の眉が動く。
「なんの茶番だ」
ヴァーニスは寝台のあった場所を指した。
「密閉された天蓋寝台の中で起きた、酸欠です」
ざわめきが起こる。
理解している者は二人を除いていなかった。
「呼吸できる空気が、意図的に奪われた」
エリスが顔を上げる。
「……酸欠?」
「ええ」
ヴァーニスは静かに続けた。
「三日前の夜、天蓋寝台の中、正確には寝台の下に“香炉”が置かれました」
執行官が鼻で笑う。
「また香炉か。煙でも吸わせたのか」
「違います」
そこで初めて、言葉の速度がわずかに変わる。
「使われたのは“ドワーフの火酒”です」
エリスが眉をひそめる。
「それは……何ですか」
「燃える酒です。ただし、煙が一切出ない」
料理長と執事は知っているようで何度か頷いた。
「煙が出ないなら、何の意味がある」
執行官が吐き捨てる。
ヴァーニスは繰り返しはっきり言った。
「酸素、すなわち呼吸を消費します」
空気がわずかに重くなる。
「密閉された天蓋の中で燃えれば、外から空気は補充されない。
やがて酸素濃度が下がり、伯爵は気づかないまま意識を失う」
目を細め、一呼吸を入れた。
「そして、眠るように死ぬ」
エリスが呟く。
「そんな……」
執行官が低く言う。
「証拠はあるのか」
ヴァーニスは即答した。
「残りません。外傷も出ません。解剖すれば“心不全”と記録されるだけです」
ヴァーニスは指を立て続けた。
「ここが重要です」
視線を床の焦げ跡へ戻す。
真顔だが口は笑っていた。
「酸欠死は、誰でも自然死に見える」
ポケットから手袋を取り出すと指をいれていく。
「だから犯人は、さらにもう一手を加えました」
執行官が目を細める。
「もう一手?」
ヴァーニスは頷いた。
「偽装です」
「偽装だと?」
「ええ。死因ではなく、“死の物語”の偽装です」
エリスの指が震える。
「……どういうことですか」
ヴァーニスは淡々と続けた。
「翌朝、寝室は“水銀中毒の現場”に書き換えられています」
執行官が舌打ちする。
「最初からそれだと言っているだろう」
「違います」
即座に否定する。
「順序が逆です。まず酸欠で殺す。そのあとで“水銀中毒に見えるように整える”」
エリスが息を呑む。
「つまり……偽の死因?」
「そうです。半年前から、天蓋の幕を利用してご主人に水銀を吸わせ、じわじわと体を蝕んでいた。水銀中毒による『病死』に見せかけるために。……ですが……犯人は計画の猶予を失った」
ヴァーニスは調書を見た後に床の焦げ目に目を移した。
「香炉は洗われ、微量の水銀が意図的に残されていた。さらに結露の痕跡まで利用されている」
執行官が額の汗を拭う。
「結露?」
「火酒の燃焼で生じた水蒸気が冷え、金属に付着する。
それを“水銀の痕跡”に見せかけた」
ヴァーニスはようやく視線を上げた。
「つまりこの事件は二重構造です」
指を一本立てる。
「第一に、酸欠による殺害」
もう一本。
「第二に、水銀中毒への偽装」
静かに言い切る。
「死因と“物語”が別々に作られている、ということです」
誰とも分からず喉が鳴る。
エリスの声が震えた。
「……誰がそんなことを」
ヴァーニスは一瞬だけ沈黙し、そして視線をマルタに向けた。
「エドガー、調書を読み上げてくれ」
エドガーは該当の文言をなぞるように読み始めた。
「”葬儀の式場を寝室に決めたのは夫人か?”」
「”いえ、私は広い客間での式を指示しました”」
「”だが、実際は寝室で行われた”」
「”私は知りません。ちゃんとマルタに伝えました”……以上です」
「このように部屋を“葬儀の形に変えた者”がいます」
マルタは動かない。
ヴァーニスは続ける。
「状況証拠はすべて彼女を指している」
執行官が吐き捨てる。
「動機は?」
その問いに、ヴァーニスは答えない。
代わりに、調書の別の事実をエドガーが続けた。
「”夫の興味は私にはなかった”」
「”どういうことだ”」
「”エリスに近づいていた”」
その瞬間、エリスの呼吸が止まる。
ヴァーニスは続ける。
「これは私の勝手な推測ですが、その動きを最も早く察知し、バランスを守り、長く維持したかった」
エリスの視線が自然とマルタへ向かう。
「これは、執事から預かった出生記録です」
筆頭執行官に渡すと彼は最後のページを指で追った。
「なんてことだ……」
使用人たちは当然知っている。
エリスを除いて。
そこにあるのは、否定されない沈黙だった。
ヴァーニスは代わりに、書類を閉じる。
「この件は以上です」
執行官は腕を組んだ。
「どうするつもりだ」
ヴァーニスは静かに答える。
「私たちは葬儀屋です」
マルタは最後まで動かなかった。
否定も、肯定もなく。
口は一文字のまま、目を赤くはらせていた。
夜の匂いが流れ込む。
誰も訂正しない。
誰も救済しない。
ただ一つだけ確かなのは──
この事件には、もう“真相”は存在しないということだけが、全員に共有されているということだった。
葬儀屋ヴァーニス第二弾、いかがだったでしょうか。
読了ありがとうございます。
本作の死因はひとつに確定しません。
解剖・供述・現場の記録、それぞれが異なる可能性を示す場合があります。
葬儀屋ヴァーニスは真相を裁かず、ただ記録するだけです。
そのため、本作の結末は読み手によって異なって見えることがあります。
葬儀屋ヴァーニス第一弾
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