ひくちこく
時刻は午前9時、最近の休日の過ごし方はまず神社に行くことにしていた。その神社の近くに駄菓子屋があって、いつもそこで格安の駄菓子を少し買う。
神社に着くと今日は先に参拝している人がいて、珍しいなと思った。参拝をおえると、もっと珍しい客がいることに気がついた。はじめはベンチで休憩している品のいいご老人かなと思ったが、よくみると簡易的な構造の折りたたみ椅子に腰掛けて少し描き進めている画用紙に向かって右手を動かしている。絵を描いていた。話しかけたい衝動に駆られた。でも、絵の邪魔になっても悪いので遠くから見つめるだけにした。
筆の動きが止まった。そのまま3分ほど経って、俺は駄菓子屋に寄ろうかなと思った時だった。絵を描いていた老人が俺に気がついた。少し見つめ合う時間があって挨拶しようと口を開こうとしたら、老人が視線をずらして首を傾げた。そうして挨拶できずにいるとこう話しかけられた。
「この春っていうのは、何度目なんだろうね?」
「100回目の春ですね」
そんな思ってもいない言葉が出てしまった。
「そうかい。100回目かい」
そう言うと老人は笑い出した。俺が不思議がっているとその様子に気がついてこう言った。
「じゃあ、100年目の春だね」
このまま老人のペースに持っていかれても嫌だった。
「いや、俺とあなたの春が100回目なんですよ」
「ほう。それはどういう意味なんだろう」
「前世があって、魂はあって。その魂の出会いの回数が100回目」
老人はメガネをずらして俺を見つめる。
「人間は火星とか月に移住するって、テレビは言ってるけどね」
「100回目の春ですから」
「確かめておきたいねえ」
「それは無茶な確認ですよ。でも、俺はそう思ってる」
「100回目の春か」
「そんなことより、なんの絵を描いてらしたんです?」
「ここの神社の桜だよ」
老人が空を見上げて桜の木を指差す。俺はその指先の方向を見た。桜の花びらが散っていく。目の前でのこの会話がスクリーンみたいなと思えるほど美しく見えた。思わず言った。
「うつくしい」
老人は黙って片付けを始めた。このまま別れるのもなんだか気が進まなかった。
「もし、そこに駄菓子屋があるので寄っていきませんか?」
「食事以外のものは食べない主義でね」
「飲み物なら何か飲みませんか?」
「せっかくのお誘いだが、お断りしておくよ」
俺と老人は隣にいるけど、心の距離は地球と火星くらい遠いのかもしれない。推測すらできない距離で、でもそれがいいのかもしれない。駄菓子屋でいつもは買わない物をあえて買い、飲み物も思い切りジャンクなものにした。
桜を散らす風の中で待ちきれずに一気に飲み干すとそこにあったのは初めての春だった。




