02 あたらしい世界
わたしの婚約解消の手続きは、驚くほどあっさり終わった。
あれほど長く続いていた婚約だったのに、書類に名前を書き、印を押し、両家が合意しただけで終わりだった。
同時に行われた妹の婚約の手続きは、長かったようだが、わたしは同席していないのでわからない。
その夜、父は静かに言った。
「ミネルバ、おまえは跡取りから外れる。フローラが継ぐ」
わかっていたことだった。
あの茶会の日から、きっとこうなるのだろうと、どこかで思っていた。
母はやわらかく微笑みながら言った。
「しばらくのんびりしたらいいわ。今の状態で社交は辛いでしょう。義姉様のところへ行くのはどう?」
わたしは、うなずいた。
それで、父の姉であるガーベラ伯母様のところへ来た。
フォード家は、実家とはまるで違っていた。
重厚で、静かで、落ち着いた家だった。
伯母様は、わたしを見て両手を広げた。
「まあミネルバ、よく来たわね」
フォード義伯父様も穏やかに笑った。
「ここではゆっくりするといい」
それだけだった。
理由も聞かない。
同情もしない。
ただ、ここにいていいと言ってくれる。
その一言だけで、胸の奥に沈んでいた重りがふっと浮いた気がした。
毎日、ゆっくり時間が流れる。
朝は庭を散歩し、午後はカリグラフィーの練習をする。
夜は伯母様とお茶を飲みながら、とりとめのない話をする。
そんな日々を過ごしているうちに、ふと気がついた。
とても毎日が楽だと気がついた。
わたしは、思っていた以上に疲れていたのだと気づいた。
ずっと息をつめて生きていたのだと。
実家では、いつも誰かの目があった。
母の目。父の目。
社交界の目。
そして、妹と比べられる目。
ある日、伯母様が言った。
「ミネルバ、これを着てみてくれない。わたしの母の物なの。若いころからのものがとってあるのよ。母は侯爵令嬢だし、貴族文化も残っていて。わたしも着たかったけど、母とはタイプが違うのよね。だけどミネルバは母に似ているのよ。だから似合うと思うのよ」
わたしは少し戸惑った。
「これでは、おかしいでしょうか?」
わたしは自分の服を見下ろしながら言った。
「ううん、きちんとしているわ。だけど、ミネルバは若いんですもの。もっと明るい色や華やかなデザインを着てもいいわよ」
伯母様はわたしの灰色の服を見ながら言った。
母が選ぶ、固い生地の灰色のワンピース。フローラの明るい色の柔らかな生地の体に優しく寄り添うワンピースが羨ましかった。
子供の頃、一度だけ言ったことがある。
「わたしも、その色を着てみたい」
そのとき母は笑った。楽しい笑いじゃなかった。馬鹿にした笑いだった。
「ミネルバには似合わないわ」
いつしか羨ましいと思う気持ちもなくなっていた。
伯母が見せてくれたのは、陽だまりのようなクリーム色の軽やかなドレスだった。
実家では着たことがない色だ。
母はいつも言っていた。
「ミネルバは地味だから、明るい色は似合わないわ」
「その色はフローラじゃなきゃ着こなせないわ」
けれど伯母様は、わたしをじっと見てから笑った。
「とても似合うと思うわ」
そのとき、鏡の中にいる自分を見た。
わたしははじめて、
少しだけ好きになれそうな自分を見た気がした。
胸の奥がふっと軽くなった。空気が違う。
ここでは、好きな色を選んでもいい。
誰も止めない。
わたしは、祖母のドレスを着てみた。
似合うと思った。祖母のものなら古いデザインかも知れない。それでも、似合うと思った。
「ほら、やっぱり似合う。あなたを見てるとお母様を思い出すわ」
それから数日後。
伯母様に連れられて、ローハン夫人のお茶会に行くことになった。
少し緊張した。
久しぶりの社交だったから。
けれど、伯母様は気楽そうだった。
「心配いらないわ。お茶を飲んで帰るだけよ」
サロンに入ると、わたしよりかなり年上のご婦人たちが談笑していた。
紅茶の香りと、初夏の光。
穏やかな空気だった。
すると、ローハン夫人が一通の手紙を手に言った。
「ねぇガーベラ、このお返事の字ってもしかして、こちらの?」
伯母様が笑った。
「あら、わかった? わたしの姪のミネルバが書いたのよ」
夫人は目を丸くした。
「すばらしい字ね」
そして、わたしを見た。
「お願いしていい?」
わたしはきょとんとした。
「?」
ローハン夫人は続けた。
「娘に字を教えてほしいの。きちんと謝礼も払いたいわ」
伯母様が楽しそうに言った。
「いいわねぇ、気晴らしになるわよ。おこづかいもいただけるなんて素敵じゃない」
「伯母様、そんな」
思わず声が出た。
伯母様は軽く言った。
「いいわよ。やりなさい」
ローハン夫人は嬉しそうだった。
「ありがとう、助かるわ」
わたしは、まだ少し戸惑っていた。
字を教える?
そんなこと、考えたこともなかった。
けれど。
胸の奥に、ほんの少しだけ灯りがともった。
誰かに必要とされる。
その感覚を、久しぶりに思い出したから。
最初は、通うだけの約束だった。
けれど数週間後、ローハン夫人が言った。
「ミネルバ、お願いがあるの」
「なんでしょう」
「娘があなたをとても気に入ってしまってね」
ローハン夫人は笑った。
「できれば住み込みで教えてくれないかしら。あなたの所作や話し方を近くで見せたいの」
わたしは驚いた。
住み込み。
それは、つまり。
フォード家を出るということ。
伯母様を見る。
伯母様は紅茶を飲みながら、静かに言った。
「いいんじゃない?」
そしてわたしを見た。
「あなたがやりたいなら」
やりたい。
その言葉を、わたしは心の中でゆっくり考えた。
テリウスも。
フローラも。
もう、わたしの世界にはいない。
ならば。
これからの世界は、わたしが選んでもいいのではないか。
わたしは顔を上げた。
「やってみたいです」
そう言ったとき。
胸の奥に、はじめて新しい風が吹いた気がした。
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