神の力
それから、シルは毎日山へ行った。
母は何も言わなかった。父も何も言わなかった。ただ祖母だけが、毎朝シルが出かける前に台所へ立って、スープか焼いたパンか、何かしら籠に入れてくれた。それだけだった。
二人の間に、少しずつ決まりごとができた。
朝、シルが山の麓で名前を呼ぶ。しばらくするとレンが上から降りてくる。最初は少し時間がかかっていたのが、日が経つにつれて早くなった。五日目には、シルが麓に着く前にレンが待っていた。
「早いな」
「お前が遅い」
毎回同じやり取りだった。シルはそれが好きだった。
レンは山のことを教えてくれた。
どの木の実が食べられるか、どこに行けば綺麗な水が飲めるか、獣がどの道を通るか、雨の前に空がどんな色になるか。レンが当たり前に知っていることを、シルは何も知らなかった。
シルは地上のことを教えた。
市が立つこと、鍛冶屋が鉄を打つ音、収穫の季節に村人が歌うこと、冬になると川が凍ること。シルが当たり前に知っていることを、レンは何も知らなかった。
「歌というのは何だ」
「音楽だよ。声で出す」
「何のために」
「楽しいから。悲しいときにも歌う」
「楽しいときと悲しいときに同じことをするのか」
「そう言われると確かに変だな」
レンは納得のいかない顔をした。シルは笑った。レンはまだ怪訝そうだったが、もう怪訝そうな顔をされるたびに笑うシルに、腹を立てなくなっていた。
十日ほど経った頃、レンが初めてシルに飛ぶところを見せた。
岩場に出て、シルが下を見ていたとき、レンがいきなり岩の端から飛び出した。シルが叫ぼうとした瞬間、翼が広がった。
白かった。
朝の光の中で、レンの翼は信じられないほど白かった。大きかった。あんなに折り畳まれていたものが、広がるとこれほど大きくなるのかと思った。レンは一度大きく羽ばたいて、岩場の上を旋回した。それからすとんと戻ってきて、シルの隣に着地した。
シルはしばらく何も言えなかった。
「どうした」
「……綺麗だった」
レンは何も言わなかった。でも耳のあたりが、少し赤かった。
二十日が経った。
シルにとって、山へ行くことは息をするのと同じくらい自然になっていた。レンと並んで岩場に座って、平原を見下ろす時間が、一日の中で一番好きな時間になっていた。
レンも少しずつ変わっていた。
言葉が増えた。最初は短い返事しかしなかったのに、今は自分から話すことがあった。山で見つけた珍しい虫のこと、昨夜見た星のこと、夢を見たこと。夢を見たと言ったとき、シルは少し驚いた。
「どんな夢だ」
「誰かがいる夢だ」
「誰か?」
「顔がない。でも声がある。何か言っている」
「何て言ってるんだ」
レンは少し黙った。
「聞き取れない。でも怖くない声だ」
シルはそれを聞いて、胸の中に小さな引っかかりを感じた。でも何も言わなかった。
変化に気づいたのは、三十日目を過ぎた頃だった。
その日、シルが麓に着くと、レンはいつもの場所にいなかった。しばらく待ったが来なかった。名前を呼んだが返事がなかった。
仕方なく山の中に入ると、レンは岩場より上の、普段行かない場所にいた。高い木の枝に止まって、ひどく緊張した様子で、遠くを見ていた。
「レン、どうした」
「人間が来た」
シルは眉を寄せた。
「俺のことか」
「違う。東だ」
シルはレンの視線を追った。山の東の麓、木々の切れ目から、遠くに人影が見えた。数人だった。旅人の格好ではなかった。鎧を着ていた。
「兵士か」
「昨日も来た。山の周りを歩いて、何かを調べていた」
シルの胸に、嫌な感じが走った。
「何日前から」
「五日前から。少しずつ増えている」
五日前。シルは記憶を辿った。五日前、村に東国の商人が来た。珍しい書物を売っていた。父がそれを話していた。何でも古い伝承を集めた本だと——
シルは息を呑んだ。
「レン、お前の力のことを知っているか。癒したり、壊したりできることを」
レンがシルを見た。その目に、初めて見る色があった。
怖れではなかった。
もっと深い、諦めに似た何かだった。
「知っていたら、どうなる」
シルは答えられなかった。答えを知っていたから。
東の兵士たちは、山の麓をゆっくりと歩いていた。まだ入ってこなかった。でも、もうすぐ入ってくるだろうとシルにはわかった。
「レン」
「なんだ」
「お前の力を、使ったことはあるか」
レンは長い沈黙の後、静かに言った。
「ある。一度だけ」
「どんなふうに」
レンは木の枝の上で翼を抱くように折り畳んだ。小さく見えた。十歳の子供に見えた。
「小さい頃、怪我をした鳥がいた。治そうとした。治った」レンは少し間を置いた。「でもその後、近くの木が一本、根元から折れた」
癒しと破壊。片方を使えば、もう片方が出る。
シルは黙って東の方角を見た。兵士たちはまだ山の外にいた。
でも時間の問題だった。
では書きますね!緊張感が高まる場面です。
翌朝、シルが山へ向かおうとすると、父に呼び止められた。
「どこへ行く」
「山の方へ」
父はしばらくシルを見た。いつもは何も言わない父が、今日は違った。
「東国の兵が、神の山の周りをうろついている」父は低い声で言った。「村の者が見た。昨日今日じゃない、もう何日も前からだ」
シルは黙っていた。
「お前は知っていたか」
「……うん」
父の目が細くなった。怒っているのか、心配しているのか、シルにはわからなかった。父はそういう人だった。感情が顔に出ない。でもいつも、何かを考えていた。
「西国の兵も動き始めた」父は続けた。「村長が今朝、使いを寄越した。しばらく北へは行くなと」
シルの胸が冷えた。
「なんで」
「わからん。でも両国が同じ方向を向いているときは、ろくなことがない」父はシルの目を見た。「北に、何かあるのか」
シルは答えなかった。
父はため息をついた。怒ったため息ではなかった。疲れたような、それでいて諦めていないような、不思議なため息だった。
「行くなとは言わん」父は言った。「お前がどこへ行っているか、父さんにはわかっている」
シルは顔を上げた。
「何も聞かん。でも約束しろ。日が暮れる前に帰ること。何かあったらすぐ逃げること」
「……うん」
父はそれ以上何も言わなかった。シルの頭に手を置いて、それから牛舎の方へ歩いていった。
シルは籠を持ち直して、北へ走った。
山の麓に着くと、レンはいなかった。
名前を呼んだ。返事がなかった。もう一度呼んだ。
風が来た。レンが降りてきた。でも今日の顔は昨日と違った。目の下に隈があった。眠れなかったのだろうとシルは思った。
「来るなと言おうと思っていた」
「来た」
「見ただろう。東だけじゃない、今朝は西からも来た」
シルは息を呑んだ。西国の兵も来たのか。父の言葉が頭をよぎった。両国が同じ方向を向いているときは、ろくなことがない。
「何人いる」
「東が七人。西が五人。今は山を挟んで反対側にいる。でも——」レンは山の奥を見た。「昨夜、一人入ってきた」
「山の中に?」
「すぐ引き返した。でも明日はもっと深く入ってくる」
シルはレンの顔を見た。レンは平静を装っていたが、翼が微妙に落ち着かなかった。羽根が逆立っているわけでもないのに、何か緊張しているのが翼に出ていた。シルはこの三十日で、それがわかるようになっていた。
「レン、山の奥に行こう」
「奥に?」
「兵士たちはまだ麓しか知らない。奥に隠れれば——」
「逃げろということか」レンの声が、少し低くなった。
「違う。時間を稼ぐんだ。俺が村に戻って、何とかできないか考える。兵士を追い返せるかもしれない」
「お前に何ができる」
「わからない。でも何もしないよりいい」
レンは答えなかった。シルを見て、それから山の奥を見た。
「奥には行きたくない場所がある」
「どこだ」
「山の中心だ。古い、石造りの場所がある。俺はそこに近づかない。ずっと」
シルは思い出した。あらすじを作ったとき、祖母と話したとき、何度も出てきた言葉。翼の種族の痕跡。
「そこに、お前の種族の何かがあるのか」
レンは答えなかった。でも否定しなかった。
「いつからそこに近づかないんだ」
「覚えている限り、ずっと」
「怖いのか」
レンはしばらく黙った。
「怖いのかどうかも、わからない」
シルは頷いた。寂しいかどうかもわからない、と言ったときと同じ言い方だった。感じたことがないから、それが何なのかわからない。レンはそういう子だった。
「一緒に行こう」シルは言った。「俺も一緒にいる」
「なぜそれで変わる」
「一人じゃないから」
レンはシルを見た。長い間見た。シルは視線を逸らさなかった。
そのとき、山の東の方から音がした。
枝を踏む音。複数の足音。昨日より山の奥まで来ていた。レンの翼がぴんと張った。
「来た」
二人は顔を見合わせた。
シルは籠を背負い直した。レンは一度だけ、山の奥の方角を見た。それから静かに言った。
「行くぞ」
二人は山の奥へ走り始めた。足音が後ろから来た。まだ遠かったが、確実に近づいていた。レンは走りながらも迷わなかった。シルは転ばないように必死でついていった。
木々が深くなった。光が減った。空気が変わった。
山の匂いが、変わった気がした。
古い、石の匂いがした。
足音が遠ざかった頃、二人は立ち止まった。
息を切らしたシルの前に、それはあった。
木々の間に、石造りの門があった。蔦に覆われて、どのくらい前に建てられたものかわからなかった。でも確かに人の手で作られたものだった。石には文字のようなものが刻まれていたが、シルには読めなかった。
門の向こうは暗かった。
レンは門の手前で止まっていた。一歩も動かなかった。翼を固く体に押しつけて、門を見ていた。
「レン」
レンは答えなかった。
「大丈夫か」
「……ここだ」レンは静かに言った。「ずっと、近づかなかった場所」
シルは門を見た。それからレンを見た。
「入れるか」
レンは長い間、黙っていた。後ろの方でまた足音がした。遠かったが、止まっていなかった。
レンは一度、深く息を吸った。
翼が、ゆっくりと広がった。
そして、一歩踏み出した。
門をくぐると、空気が変わった。
外の山の空気とは違った。冷たくて、でも澄んでいて、何か古いものが混じっていた。石の匂いだけじゃない。もっと別の何か。シルには言葉にできなかったが、体がそれを感じた。
門の向こうは広場になっていた。
石畳だった。苔に覆われて、元の色はほとんど見えなかったが、確かに整然と敷かれた石畳だった。広場の中央に、大きな石があった。祭壇のようなものだろうか。その周りに、低い石造りの建物がいくつか並んでいた。屋根は崩れていた。壁だけが残っていた。
誰もいなかった。
ずっと、誰もいなかったことがわかった。
シルは広場に立って、ゆっくりと見回した。建物の壁に、彫刻があった。翼の生えた人の姿が、いくつも刻まれていた。大きいもの、小さいもの、翼を広げているもの、折り畳んでいるもの。みんな同じ方向を向いていた。
中央の石の方を向いていた。
「レン、ここは」
レンは門の内側に立ったまま、動いていなかった。
広場を見ていた。彫刻を見ていた。中央の石を見ていた。その目に、シルが今まで見たことのない色があった。
泣きそうな目、ではなかった。
泣き方を知らない子が、泣きそうになっているような目だった。
「レン」
シルはレンのそばに戻った。レンは視線を動かさなかった。
「知ってたか、ここのことを」
「知らなかった」レンは静かに言った。「でも、知っていた気がする」
「どういうことだ」
「夢で見た。何度も」シルは息を呑んだ。レンが言っていた夢。顔のない誰かが何かを言っている夢。「この広場を、夢で見た。でも夢の中では、誰かがいた」
「誰が」
「わからない。たくさんいた。みんな翼があった」
シルは広場を見た。彫刻の中の翼の人たちを見た。かつてここに、たくさんの翼の種族が生きていたのだ。
「なんでいなくなったんだろう」
レンは答えなかった。でも今度は、答えられないのではない気がした。答えを恐れているような、沈黙だった。
二人は広場の中を歩いた。
レンは最初の一歩を踏み出してからは、ゆっくりだが確かに歩いた。シルは少し後ろからついた。レンのペースで、レンの見たいものを見せてやりたかった。
建物の一つに入った。
壁の彫刻はここでも続いていた。でも中には彫刻だけでなく、棚があった。木の棚は朽ちて崩れていたが、その残骸の中に、石の板がいくつか残っていた。
レンがその一枚を拾い上げた。
表面に、細かい文字が刻まれていた。シルには読めなかった。でもレンは——
「読めるか」シルは聞いた。
レンは石の板を見つめていた。長い間見つめていた。
「……読める」
「習ったのか」
「習っていない」レンはゆっくりと言った。「でも読める。最初から、読めた」
シルは黙った。最初から読めた。誰にも習わずに。生まれながらに体に刻まれていたということだろうか。
「何て書いてある」
レンは石の板を持つ手が、わずかに震えた。
「守護者の誓い、と書いてある」
「守護者」
「この山を守る者の、誓いの言葉だ」レンは続けた。声が平坦だったが、それが余計に重かった。「山は均衡の要。東と西の間に立ち、どちらにも傾かず、力は守るために使い、奪うために使わず——」
レンの声が止まった。
シルは待った。
「我らが絶えるとき、力は一に宿る。最後の守護者よ、山を離れるな。山が乱れるとき、力を示せ。ただし——」
また止まった。今度は長かった。
「ただし?」シルは静かに促した。
「ただし、力は意志に従う。守る意志があれば癒しとなり、奪う意志があれば破壊となる」
広場に風が吹いた。
シルはレンの横顔を見た。レンは石の板を見ていた。その目に、少しずつ何かが積み重なっていくのがわかった。驚きでも、悲しみでも、怒りでもない。ただ、長い間空白だった場所に、何かが満ちていくような目だった。
「レン」
「俺が、最後の一人だ」レンは静かに言った。「種族が絶えて、力が俺一人に宿った。だから俺は、山を離れられない。山が均衡を保つために、ここにいなければならない」
「それを、誰かに言われたのか」
「誰もいない」
「じゃあ、いつから知ってたんだ」
「知らなかった」レンは石の板を静かに棚の残骸に戻した。「でも今、わかった」
シルは黙った。
最初から一人だった理由。山を離れられない理由。力を隠してきた理由。全部が、この一枚の石の板に書いてあった。レンはそれを今日初めて読んだ。でも体はずっと知っていた。
だから山を離れなかった。誰に言われなくても。
「なあ、レン」シルは言った。「種族がいなくなったのは、なんでだろう」
レンはしばらく黙った。
「もう一枚、ある」
建物の奥の棚の残骸に、もう一枚石の板があった。レンがそれを拾い上げた。こちらは文字が少なかった。でもレンの手が、さっきより強く震えた。
「読めるか」
レンは頷いた。でもすぐには読まなかった。
外で、音がした。
足音だった。複数の、重い足音だった。石畳の上を踏む音。門の外で止まった。
シルとレンは顔を見合わせた。
声がした。男の声だった。東国の言葉だった。シルには全部はわからなかったが、いくつか聞き取れた。
翼。力。手に入れろ。
レンの翼が、ぴんと張った。
シルは石の板を指さした。声を出さずに口だけ動かした。
何て書いてある。
レンは一度だけ石の板を見て、それからシルを見た。その目に、初めて怒りに似たものが宿っていた。
「種族が滅んだ理由が、書いてある」レンは静かに、でもはっきりと言った。「力を狙った人間に、追われた、と」
沈黙が落ちた。
門の外の足音が、増えていた。




