翼の少年
牧場が近づくにつれて、シルの足は自然と速くなった。
柵が見えた。井戸が見えた。煙突の煙が見えた。何度も見てきた、何も変わらない景色なのに、今日は胸に迫るものがあった。
母が先に気づいた。
台所の窓から顔を出して、シルの姿を見た瞬間、窓から消えた。次の瞬間には表の扉が開いて、母が飛び出してきた。
「シル!」
母はシルの顔を両手で挟んで、それから肩を掴んで、それから強く抱きしめた。背中をばんばんと叩いた。痛かったが、シルは何も言わなかった。
「どこにいたんだい、一体!昨日から探してたんだよ!父さんも今朝から出て——」
「ごめん」
「泥だらけじゃないか、怪我は、熱は——」母がシルの額に手を当てた。「冷たい、濡れたままいたのか、早く中に入りな」
羊が呑気に鳴いた。
母がその羊を見て、それからシルを見て、何かを察したような顔をした。
「羊を追いかけたのかい」
「うん」
「北か」
シルは少し間を置いた。
「うん」
母の目が細くなった。北、という言葉が何を意味するか、母もわかっているはずだった。でも今は何も言わなかった。ただシルの背中を押して、家の中へ連れて入った。
台所は温かかった。
パンの焼ける匂いがした。シルは椅子に座らされ、濡れた上着を脱がされ、温かいスープを目の前に置かれた。母は何も聞かなかった。ただてきぱきと動いて、シルの世話を焼いた。
シルはスープを飲みながら、ぼんやりと考えた。
レンの夕食は、干した木の実と干し肉だった。温かいものを食べたことがあるのだろうか。誰かに世話を焼かれたことが、あるのだろうか。
「おばあは」
「奥で休んでるよ。心配してね、昨日の夜から眠れなかったみたいだ」
シルはスープを置いて立ち上がった。
「ちょっと待ちな、まだ飲みかけ——」
「すぐ戻る」
祖母の部屋は家の一番奥にあった。小さな窓から北の方角が見えた。シルはいつも気にしなかったが、今日初めてそれに気づいた。
祖母は寝台に横になっていたが、シルが入ると目を開けた。
「シル」
「ただいま、おばあ」
祖母はゆっくりと体を起こした。シルは寝台のそばに座った。祖母の皺だらけの手が、シルの手を握った。
「どこにいたんだい」
「山に迷い込んだ」
祖母の手が、ぴくりと動いた。
「神の山かい」
「うん」
部屋が静かになった。窓の外で風が鳴った。
「会ったかい」祖母が静かに言った。「翼の子に」
シルは頷いた。祖母の目が遠くなった。若い頃に戻ったような、懐かしいものを見るような目だった。
「どんな子だった」
シルは少し考えた。無口で、正直で、裸足で、雲の上まで飛べて、寂しいかどうかもわからないと言った。そういう子だった。
「レンっていう名前だった」
祖母が小さく息を呑んだ。
「私が会った子も、そういう名前だったよ」
シルは祖母の顔を見た。祖母はシルを見ていなかった。窓の外の、北の方角を見ていた。
「同じ子じゃないよ」祖母は静かに続けた。「私が会ったのはもう六十年も前だ。でも——」祖母は少し間を置いた。「翼の子はみんな、そういう名前なのかもしれないね」
シルにはその意味がよくわからなかった。でも今は聞かなかった。
「また行くつもりかい」
祖母の声は責めていなかった。ただ確かめるように、静かに聞いた。
「うん」
祖母はしばらく黙っていた。それから、握っていたシルの手を両手で包んだ。
「そうかい」
それだけだった。
止めなかった。心配するなとも言わなかった。ただ、そうかい、と言った。その一言の中に、六十年分の何かが入っているような気がして、シルは胸がいっぱいになった。
部屋を出ようとしたとき、祖母が後ろから言った。
「シル」
「なに」
「その子に、飯を持っていってやりな」
シルは振り返った。祖母は窓の外を見たまま、小さく笑っていた。
「きっと、温かいものを食べたことがないだろうから」
三日後、シルは山へ向かった。
母には薪拾いに行くと言った。嘘ではなかった。帰りに少し拾えばいい、とシルは思った。籠の中には、祖母が朝のうちに包んでくれたものが入っていた。黒パン、干し果物、そして小さな土鍋に入った豆のスープだった。冷めないよう、布で何重にも包んであった。
父には何も言わなかった。
あの夜、日暮れ過ぎに帰ってきた父は、シルの顔を見て何も言わなかった。ただ頭に手を置いて、それから黙って夕飯を食べた。翌朝も何も言わなかった。でも柵の修理を手伝いながら、一度だけ言った。
「次は一人で行くな」
シルは返事をしなかった。それが返事だった。父はそれ以上何も言わなかった。
山の入り口に着いたのは昼前だった。
三日前と同じ場所のはずなのに、どこから入ったのかわからなかった。木々はどこも同じ顔をしていた。シルは麓をしばらくうろうろして、それから仕方なく上を向いた。
「レン!」
声が山の中に吸い込まれた。鳥が驚いて飛び立った。しばらく待ったが、何も起きなかった。
「レン、俺だ、シルだ!」
また沈黙。
シルは籠を抱え直した。スープが冷めてしまう。もう少し待って、それでも来なければ——
風が上から来た。
葉が舞い上がり、シルは思わず顔を覆った。音がして、静寂。
見上げると、レンが目の前の木の枝に座っていた。翼を折り畳んで、無表情でシルを見下ろしていた。
「来るとは思わなかった」
「来るって言っただろ」
「羊は逃げていない」
「羊関係なく来た」
レンは少し黙った。それから枝から飛び降りた。
「なんの用だ」
「飯を持ってきた」シルは籠を持ち上げた。「温かいやつ」
レンの目が、籠に向いた。それだけだった。でもシルにはそれで十分だった。
洞穴の中で、二人は並んで座った。
シルが土鍋の布を解くと、まだ湯気が出た。祖母のスープだった。豆と干し野菜を煮込んだ、家にいる限りいつでも食べられる、何でもないスープだった。
レンに渡すと、レンはしばらく湯気を見ていた。
「食べないのか」
レンは木の匙でひと口すくって、飲んだ。
それだけだった。美味いとも何とも言わなかった。でもゆっくりと、一匙ずつ飲んだ。こぼさないように、大事に飲んだ。
シルは自分の分のパンをかじりながら、横目でレンを見た。レンの横顔は相変わらず無表情だった。でも鍋を持つ手が、いつもより丁寧な気がした。
鍋が空になった。
レンは空の鍋をしばらく見ていた。それから静かに言った。
「温かかった」
感想なのか、報告なのか、シルにはわからなかった。でもレンにとってそれが精一杯の言葉だということは、なんとなくわかった。
「また持ってくる」
レンは答えなかった。でも今度は断らなかった。
しばらく二人は黙って座っていた。
沈黙は苦ではなかった。三日前と違って、怖くない沈黙だった。シルはそれが少し不思議だった。初めて会った人間と、なぜこんなに黙って座っていられるのだろう。
「なあ、レン」
「なんだ」
「この山のこと、教えてくれないか」
レンがシルを見た。
「なぜ」
「お前のことを知りたいから。お前はこの山のことしか知らないんだろ。だったら山のことを教えてくれたら、お前のことがわかる気がして」
レンは少し考えるような顔をした。シルはこういう顔ができるんだ、と思った。三日前は無表情しか見ていなかった。
「山の何が知りたい」
「なんでもいい。お前が好きな場所とか」
「好きな場所」レンは繰り返した。初めて聞く言葉みたいな繰り返し方だった。「……ある」
「連れてってくれるか」
また沈黙。今度は少し長かった。
「明日」レンは言った。「今日はもう遅い。日が暮れる前に帰れ」
シルは空を見た。確かに光が傾いていた。
「明日また来る」
「来ても迷う」
「お前が迎えに来ればいい」
レンは何も言わなかった。でも否定しなかった。シルはそれを返事だと思うことにした。
立ち上がって籠を持ったとき、レンがぽつりと言った。
「スープを作った人間に、伝えろ」
シルは振り返った。
「美味かった、と」
シルは笑った。今度はレンも、怪訝な顔をしなかった。ただ静かにシルを見ていた。
「伝える。おばあも喜ぶよ」
「おばあ」レンが小さく繰り返した。何かを確かめるように。
「祖母だよ。俺を育ててくれたじいさんばあさんのうちのばあさんの方」
レンはしばらく黙っていた。
「……そういうものが、いるのか」
その一言が、胸に刺さった。
シルは笑顔のまま頷いた。笑顔のまま洞穴を出た。山の出口までレンが送ってくれた。平原に出て振り返ると、レンは三日前と同じ場所に立っていた。
「また明日」
レンは頷かなかった。でも手が、ほんの少し上がった。
それで十分だった。
シルは走って帰った。祖母に伝えることがあったから。そして明日また来る理由が、また一つ増えたから。
翌朝、シルが山の麓に着くと、レンはもう待っていた。
木の根に腰を下ろして、膝の上に小鳥を乗せていた。小鳥はレンの指をつついていた。レンはされるがままにしていた。シルの足音を聞いて顔を上げると、小鳥は驚いて飛んでいった。
「待ってたのか」
「来るのが遅い」
「早くもないだろ、まだ朝だぞ」
レンは立ち上がった。今日も裸足だった。シルは籠を持ち直した。今日も祖母がスープを入れてくれた。昨日伝えると、祖母は何も言わずに立ち上がって台所へ行った。それだけだった。
「遠いのか、その場所」
「遠くない」
レンは歩き始めた。昨日までと違って、今日は少しだけ歩くのが速かった。シルはそれに気づいたが、何も言わなかった。
山の中は朝の光で満ちていた。
木々の間から差し込む光が、地面に斑模様を作っていた。苔が光を含んで緑に輝いていた。昨日まで薄暗く見えた山が、今日は全然違う顔をしていた。
「この山、朝は綺麗なんだな」
「昼も夕方も夜も綺麗だ」
「お前が案内してくれるからそう見えるのかもな」
レンが振り返った。何か言いたそうな顔をして、やめた。また前を向いて歩いた。
しばらく歩くと、登り坂になった。岩が増えた。足元に小さな沢が現れて、水の音が続いた。レンは沢沿いに登っていった。シルは息を切らしながらついていった。
「お前、疲れないのか」
「疲れる」
「全然そう見えないけど」
「お前が遅いだけだ」
シルは何も言えなかった。確かにそうだった。
沢が細くなった頃、唐突に視界が開けた。
岩場に出た。山の中腹あたりだろうか。木々が途切れて、空が広がっていた。岩の上に立つと、平原が見えた。遠くまで続く草原と、その向こうに西国の町並みが霞んで見えた。さらに遠く、東の方には東国の城壁らしきものも見えた。
シルは息を呑んだ。
「すごい」
「毎朝ここから見る」レンは岩の端に立って、平原を見下ろした。翼が風を受けてゆるく広がった。「東と西が、両方見える」
「お前はここからずっと見てたのか。俺たちのことを」
レンは答えなかった。でも答えと同じだった。
シルはレンの隣に立った。同じ景色を見た。平原は広かった。牧場は小さかった。自分が毎日歩き回っているあの場所が、ここから見るとこんなに小さいのかと思った。
「なあ、レン」
「なんだ」
「ここから見てて、下に行きたいと思ったことはないか」
レンは少し黙った。
「ある」
シルは驚いて横を向いた。レンは平原を見たままだった。
「でも行かない」
「なんで」
「俺が山を離れたら——」レンは言葉を切った。何かを測るような間があった。「何かが壊れる気がする」
「何かって」
「わからない。でもそんな気がする。ずっと」
シルはレンの横顔を見た。十歳の子供の顔だった。でもその目は、ずっと年上の何かを見ているような目だった。
「それって、誰かに言われたのか」
「誰もいない」レンは静かに言った。「最初から、誰もいない」
最初から。
シルはその言葉を胸の中で転がした。生まれたときから一人だったということか。それとも、いたけれど、いなくなったのか。
聞こうとして、やめた。
今日じゃなくていい。レンがここに連れてきてくれた、それだけで今日は十分だと思った。
二人はしばらく並んで立っていた。風が吹くたびに、レンの翼がゆるく揺れた。
「なあ」シルは言った。「俺、地上のことなら何でも教えるよ」
レンがシルを見た。
「お前が山のことを教えてくれるみたいに。俺は下のことを教える。祖母のこと、牧場のこと、西国と東国のこと。お前が知らないこと、全部」
レンはしばらくシルを見ていた。値踏みでも、警戒でもない目だった。何か、初めて受け取るものを前にしたときのような、戸惑いに似た目だった。
「なぜそこまでする」
「友達だから」
レンの目が、わずかに揺れた。
「俺たちは友達なのか」
「俺はそう思ってる」
また沈黙。風が鳴った。レンの翼が大きく広がって、また閉じた。
「……俺には、わからない」レンは静かに言った。「友達というものが、どういうものか」
「だから教える」シルは笑った。「それも含めて」
レンは答えなかった。でも今度の沈黙は、昨日までとまた少し違った。何かが、ゆっくりと溶け始めているような沈黙だった。
シルは籠を開けた。
「飯にしよう。ここで食べたら美味いだろ」
レンは少し間を置いて、岩の上に座った。シルの隣に、少しだけ近い距離で。
平原を見下ろしながら、二人は並んでスープを飲んだ。温かい湯気が、山の冷たい空気の中に溶けていった。
レンは何も言わなかった。
でもシルは、レンが今日初めて、急いで飲まなかったことに気づいた。




