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出会い

夜になると、祖母はいつも火のそばに座った。

膝の上に古びた毛布をかけ、細い指で羊毛を紡ぎながら、祖母はシルに話して聞かせた。西国の冬の話、平原を渡る風の話、そして——神の山の話を。

「おばあ、またその話?」

シルは藁の上に寝転がったまま言った。牛舎の匂いと、暖炉の煙の匂いが混ざり合う、いつもの夜だった。

「また、とはなんだい」祖母は笑った。皺だらけの顔に、若い頃の面影が浮かぶような笑い方だった。「お前が聞きたがるから話してやってるんだろう」

シルは何も言わなかった。それは本当のことだったから。

「私がまだお前くらいの歳の頃だよ」祖母は紡ぎ棒を止めずに言った。

「羊が一頭、北の方へ逃げてしまってね。追いかけているうちに、気がついたら神の山の麓に立っていた」

「怖くなかったの」

「怖かったとも。でも羊を置いていくわけにもいかないだろう」

祖母の目が遠くを見た。暖炉の炎を見ているようで、もっと遠い何かを見ているようだった。

「そこで会ったんだよ。翼の子に」

シルは身を起こした。この部分だけは、何度聞いても起き上がらずにいられなかった。

「白い翼だった。大きな鳥みたいにばさりと広げてね、木の枝の上からこっちを見ていた。目が合ったとき、私は逃げようと思った。でも——」

「でも?」

「逃げなかった。その子の目が、怖い目じゃなかったから」祖母は少し間を置いた。

「寂しそうな目だったから」

その夜、シルはなかなか眠れなかった。藁の天井を見上げながら、翼の子のことを考えた。神の山は北へ半日も歩けば見える。いつも雲をまとって、ただそこにある。誰も近づかない。近づいてはいけないと、西国でも東国でも、子供の頃から教えられる山だ。

でも祖母は行った。そしてそこで誰かに会った。

シルは目を閉じた。

瞼の裏に、見たこともない白い翼が広がった。


翌朝、シルが目を覚ますと祖母はもう台所に立っていた。

「早く食べな。北の柵が壊れてる。羊が出たら大事だよ」

シルは黒パンをかじりながら外へ出た。秋の空は低く、平原の草が風に揺れていた。北の方を見ると、確かに柵の杭が一本折れて、隙間ができていた。

羊はまだ囲いの中にいた。シルは胸を撫で下ろして柵を直し始めた。

それが午前中のことだった。

問題が起きたのは昼過ぎだ。

一頭足りない。

シルは頭の中で数えた。もう一度数えた。やはり一頭いない。白い斑のある、いちばん臆病な雌羊だった。壊れた柵から夜のうちに出てしまったのだろう。

父は隣村へ出かけていて、母は赤ん坊の妹にかかりきりだった。シルは一人で探しに出た。

足跡は北へ続いていた。

最初は気にしなかった。平原は広い、どこかの草むらに隠れているだろうと思った。でも足跡はまっすぐ北を指していた。どこにも曲がらず、迷わず、まるで何かに引き寄せられるように。

一刻歩いた頃、シルは顔を上げた。

山が近かった。

いつもは遠くに見えるだけの山が、目の前にそびえていた。雲が低く垂れ込め、木々は深く暗く、麓の石は苔むして古い時代の色をしていた。風がぴたりと止んでいた。平原ではあんなに吹いていたのに、山の前だけ空気が動かなかった。

シルの足が止まった。

神の山だ。

膝が少し震えた。引き返せ、と頭の中で声がした。お前はここに来てはいけない、西国の子供なら誰でも知っている。でも——

「メェ」

草むらの奥から、情けない声がした。

シルは目を閉じ、一度深呼吸をして、草むらをかき分けた。白い斑の雌羊が、山の麓の岩の間に挟まって、ひどく困った顔をしていた。

「もう、こんなとこまで来て」

シルはしゃがんで羊を抱え上げた。重い。足をばたつかせる羊をなだめながら立ち上がり、さあ帰ろうと振り返ったとき、シルは気がついた。

来た道がわからなかった。

草むらをかき分けてきたはずなのに、どこも同じ木、同じ岩、同じ苔に見えた。平原はどこだ。風はどこから吹いていた。シルは羊を下ろして四方を見回したが、見覚えのある景色がどこにもなかった。

山の中にいた。

いつの間に入ったのか、自分でもわからなかった。羊の足跡を追っているうちに、気づかぬまま踏み込んでしまったのだろう。木々は密で、空は枝に遮られ、どこを向いても薄暗かった。

帰れる、とシルは思った。来た方向へ戻ればいい。

でも一刻歩いても、出口が見えなかった。


日が傾くにつれて、山の中はどんどん暗くなった。

平原では夕暮れ時にまだ明るさが残るのに、ここでは木々が光を吸い込んでしまうようだった。シルは何度も転び、膝を打ち、それでも歩き続けた。羊はもう歩かせていた。綱もないのに、不思議とシルのそばを離れなかった。

「おばあ」

声に出したら、余計に心細くなった。

父は夜には戻るだろう。母が気づいて探しに来るかもしれない。でも神の山に入ったとは誰も思わないはずだ。思っても、入ってこられない。

シルは大きな岩に背をもたれて座り込んだ。足が笑っていた。喉が渇いた。朝から黒パンを一切れしか食べていないことを、今更思い出した。

夜が来た。

木々の間から星が見えた。平原で見る星より、ずっと多かった。別の世界の空みたいだった。シルは膝を抱えて、羊の温もりに寄り添った。羊がのんきな声で鳴いた。

「お前のせいだぞ」

羊は気にしないようだった。

夜明け前に雨が降った。

大した雨ではなかったが、シルはずぶ濡れになった。岩陰で身を縮めて、ガタガタと震えながら夜が明けるのを待った。眠れなかった。木の葉が鳴るたびに、何かいるのかと思った。獣の声がした。遠かったが、近づいてくるような気がした。

夜明けとともに歩き始めた。

昨日より足が重かった。腹が減っていた。沢を見つけて水を飲んだ。それだけで少し生き返った気がしたが、歩き続けるうちにまた力が抜けていった。

昼を過ぎた頃には、もう方角もわからなくなっていた。

上り坂を登っていたのか、下り坂を下りていたのか、それさえも曖昧だった。木の根に足を取られて転び、起き上がろうとしたが、うまく力が入らなかった。羊が顔を寄せてきた。温かい鼻息が頬にかかった。

「ごめん」

誰に言ったのか、自分でもわからなかった。父に、母に、祖母に。あるいは羊に。

シルは冷たい地面に手をついたまま、顔を上げた。

木々の向こうに、夕陽が見えた。また夜が来る。今夜も越えられるだろうか。もう一度立ち上がれるだろうか。

そのとき、風が変わった。

上から、風が来た。

葉が舞い上がり、シルは思わず顔を腕で覆った。何かが降りてくる音がした。大きな翼が空気を叩く音、枝が揺れる音、そして——静寂。

シルはそっと腕を下ろした。

目の前に、少年が立っていた。

白い翼を背中に折り畳んで、黒い目でシルを見下ろしていた。歳はシルと同じくらいだろうか。裸足だった。粗末な布を体に巻いただけの格好で、それでも寒そうにしていなかった。

少年はしゃがんだ。シルと目の高さを合わせて、じっと顔を見た。

それから無言で、手を差し伸べた。

シルは一瞬躊躇った。でも立ち上がる力がなかった。震える手で、その手を掴んだ。細いのに、しっかりした手だった。引き上げられた体は、思ったより軽かった。

「……ありがとう」

少年は何も言わなかった。ただシルを見て、それからくるりと背を向けて歩き始めた。

ついてこい、ということだろうか。

シルは羊を連れて、よろよろとあとをついた。少年は速くも遅くもない歩き方で、シルが遅れると立ち止まって待った。一度も振り返らなかったが、必ず待った。

しばらく歩くと、岩壁に穿たれた小さな洞穴があった。中には枯れ草が敷いてあり、石を積んで作った簡素な炉があった。少年はそこで火を起こし、シルに場所を示した。

シルは崩れるように座り込んだ。

火の温もりが、じわじわと体に染みた。涙が出そうになったが、こらえた。

「お前、ここに住んでるのか」

少年はシルを一瞥して、また火に目を戻した。答えなかった。でも否定もしなかった。

シルは炎を見ながら、祖母の話を思い出した。

寂しそうな目だったから。

今のこの少年の目も、怖くはなかった。ただ——何かをずっと、押し込めているような目だった。

「俺はシルだ」

少年はすぐには反応しなかった。火が一度、大きく揺れた。

それからぽつりと、言った。

「……レン」


羊は洞穴の隅で丸くなって、もう眠っていた。

シルは火を挟んでレンの向かいに座り、膝を抱えた。体は温まってきたが、腹の虫が情けない音を立てた。思わず腹を押さえると、レンがちらりとこちらを見た。

気まずかった。

レンは立ち上がり、岩棚の奥から何かを取り出した。木の皮を器にした、干した木の実と獣の干し肉だった。それをシルの前に置いた。

「いいのか」

レンは答えなかった。でも取り上げる様子もなかった。

シルは遠慮なく食べた。味はほとんどなかったが、こんなに美味いものを食べたことがないと思った。レンは自分の分を少しだけ取って、あとはシルの前に残した。

「お前は?」

「足りてる」

初めてちゃんとした返事だった。シルは少し驚いて、レンの顔を見た。レンは火を見ていた。

「ずっとここに住んでるのか」

少し間があった。

「ずっと」

「一人で?」

今度はもっと間があった。

「一人で」

シルは返す言葉を探したが、見つからなかった。一人で、という言葉が洞穴の中に残って、火の音だけが続いた。

「寒くないのか、冬」

「慣れた」

「飯はいつもあんな感じか」

「足りてる」

「友達は」

レンの手が、膝の上でわずかに動いた。

「いない」

シルは黙った。いないのか、いたけどいなくなったのか、聞けなかった。レンの声が平坦すぎて、どちらなのかわからなかった。ただその一言が、�妙に重かった。

「俺、明日帰れるか」

「送る」

「助かる」レンの目がちらりとこちらを向いた。シルは続けた。

「今日も助けてくれてありがとう。あのままだったら、たぶんやばかった」

レンは何も言わなかった。でも今度は視線を逸らさなかった。ただじっとシルを見た。値踏みするような目ではなく、何か確かめるような目だった。

シルは少し居心地が悪くなって、頭を掻いた。

「なんで助けてくれたんだ」

「山に入った人間が死んだら、面倒だから」

「面倒?」

「人間が来るようになる。山を調べに」

ずいぶん正直な理由だった。シルは少し笑った。レンが怪訝そうな顔をした。

「笑うことか」

「いや、正直だなと思って」

レンはまた火に目を戻した。でも怒った様子ではなかった。

炎が小さくなってきた。レンが無言で薪をくべた。手慣れた動作だった。何年も、毎晩一人でやってきた動作だった。

シルは洞穴の天井を見上げた。岩の割れ目から、星が見えた。

「なあ、レン」

「なんだ」

「お前の翼って、飛べるのか」

しばらく沈黙が続いた。シルは聞きすぎたかと思った。でもレンは怒らなかった。

「飛べる」

「どのくらい高く」

「雲の上まで」

シルは息を呑んだ。雲の上。平原に立って見上げるあの雲の、さらに上。

「すごいな」

レンは何も言わなかった。でも今度は少し、間の取り方が違った気がした。悪い沈黙ではなかった。

火がぱちりと鳴った。

「寝ろ」レンが言った。「明日、早く出た方がいい」

「お前は?」

「後で寝る」

シルは枯れ草の上に横になった。思ったより柔らかかった。目を閉じると、すぐに眠くなった。丸一日歩き回った体が、一気に重くなった。

意識が遠のく直前に、シルはぼんやりと思った。

レンは毎晩、一人でこの火を見ているのだろうか。雲の上まで飛べるのに、この小さな洞穴で。

寂しそうな目だったから。

祖母の声が、夢の中まで続いた。


目が覚めたとき、レンはもういなかった。

炉の火は消えていたが、まだ灰が温かかった。羊は相変わらず隅で眠っていた。シルは体を起こして、洞穴の外を見た。

夜明けの光が木々の間から差し込んでいた。鳥の声がした。昨日迷い込んだときとは別の山のように、静かで穏やかだった。

「起きたか」

上から声がした。

シルが見上げると、洞穴の上の岩にレンが座っていた。膝を立てて、遠くを眺めていた。翼を少し広げて、朝の風を受けていた。

「寝なかったのか」

「少し寝た」

嘘だとシルは思ったが、何も言わなかった。

レンは岩から飛び降りた。翼を使わず、ただ軽やかに着地した。それから無言で歩き始めた。シルは羊を連れて後に続いた。

山の中はやはり入り組んでいた。昨日あれほど迷ったのに、レンは迷わなかった。獣道とも呼べない細い道を、慣れた足取りで進んだ。シルには何の目印もないように見える場所で、左へ右へと迷いなく曲がった。

「よくこんなとこ歩けるな」

「慣れた」

「どのくらい住んでるんだ、この山に」

「覚えてない」

シルはその答えに一瞬詰まった。覚えていない、というのはどういうことだろう。生まれたときからいるということか。それとも——

「親は」

レンの歩みが、ほんの少し遅くなった。シルは気づいたが、気づかないふりをした。

「いない」

「死んだのか」

「知らない」

知らない。シルは胸の中でその言葉を繰り返した。死んだかどうかも知らない。いなくなった、ということだろうか。それとも最初からいなかったのか。

聞けなかった。

しばらく二人とも黙って歩いた。羊の蹄の音と、風の音だけがあった。

やがて木々が薄くなってきた。光が増えた。足元の土が、平原のそれに変わり始めた。

「あ」

シルは思わず声を上げた。平原が見えた。広い、見慣れた平原が。遠くに牧場の柵が見えた。煙突から煙が上がっていた。母が火を起こしているのだろう。

胸がじんとした。

シルは振り返った。

レンは山の境目で止まっていた。一歩も外へ出ようとしなかった。木陰に立って、平原をじっと見ていた。その目が、昨夜の炎を見ていたときと同じ目をしていることに、シルは気づいた。

「出てこないのか」

「出ない」

「なんで」

レンは少し黙ってから言った。

「俺がいる場所はここだ」

それだけだった。それ以上でも以下でもない、ただそれだけの答えだった。

シルは羊の綱を握ったまま、しばらくレンを見た。レンは視線を逸らさなかった。

「また来ていいか」

レンの目が、わずかに動いた。

「なぜ」

「また来たいから」

「それは理由じゃない」

「理由がないといけないのか」シルは少し笑った。

「羊がまた逃げるかもしれないし」

レンは答えなかった。でも行くなとも言わなかった。

シルは平原へ踏み出した。数歩歩いて、振り返った。レンはまだそこに立っていた。木陰の中で、翼を体に折り畳んで、シルが遠ざかるのを見ていた。

「レン、一個だけ聞いていいか」

レンは何も言わなかった。聞けということだろうと、シルは思った。

「お前、寂しくないか」

風が吹いた。レンの白い翼が、風にふわりと揺れた。

レンは長い間、黙っていた。シルが答えを諦めかけたとき、ぽつりと言葉が来た。

「……わからない」

わからない。ずっと一人だから、寂しいのかどうかも、わからない。

シルは頷いた。何も言わずに頷いて、平原を歩き始めた。羊がのんきについてきた。

半分ほど歩いたところで、もう一度振り返った。

木陰はもう暗くて、レンがいるのかいないのかわからなかった。でもシルは手を振った。

返事はなかった。

でも何となく、見ていてくれている気がした。

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