第1話 黒猫は、まだ名前がない
この物語は、
勇者になる話でも、魔王になる話でもありません。
人生の進路を選んだ結果、
「自分であること」を手放してしまう。
ひとりの少年の物語です。
第1話 黒猫は、まだ名前がない
高校三年の春。
俺は、黒野 裕之
ごくごく普通の受験生だ。
成績は……中の中。普通の普通。
特別な才能も、将来の夢もない。
強いて言うなら、「安定した人生」が欲しかった。
大学に行って、就職して、給料をもらって。
失敗しないように生きて、できれば目立たずに人生を終わりたかった。
それが、正しい選択だと信じていた。
信じていた、はずだった。
合格発表の日。
スマホの画面に表示された文字を見た瞬間、頭が真っ白になった。
不合格
理由は分からなかった。
努力が足りなかったのか、運が悪かったのか。
考える余裕もなく、俺は校門の前で立ち尽くしていた。
そのときだった。
足元で、何かが動いた。
黒い毛並みの猫が、俺を見上げていた。
やけに落ち着いた目をしている。
ただ一つおかしかったのは、しっぽの先が
紅く染まっていたことだ。
「……猫?」
声をかけても、黒猫は鳴かなかった。
逃げもしなかった。
ただ、じっと俺を見ている。
まるで、最初からそこにいたみたいに。
「…なぁ黒猫…俺、受験落ちたみたいだ。」
なぜか、猫に話しかけていた。
誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
猫は返事をしない。
紅いしっぽが、ゆっくりと揺れるだけだった。
その瞬間、視界が歪んだ。
足元のアスファルトが、溶けるように消えていく。
風景が裏返り、世界が ”別の世界” に置き換わる。
俺は、声も出せないまま立っていた。
気がつくと、見知らぬ部屋で椅子に座っていた。
向かいには、書類の山と、スーツ姿の男。
「あ、お気づきになりましたか?」
男は事務的な声で言った。
「ここは、”進路調整局”です。あなたのこれからの人生について、面談しましょう。」
俺は言葉を失った。
……面談?人生?……”進路調整局”?
そんな俺の足元で、黒猫が静かに座った。
ここでも、当然のように横にただ居るだけ。
「…おい…お前、ついてきたのか」
猫は、相変わらず鳴かない。
「お前……黒猫、名前はないのか?」
そう聞いたとき、
なぜか胸の奥が、ちくりと痛んだ。
呼び方が分からない。
名前が……ないから?
お先真っ暗だな。俺の人生みたいだ。
「……まぁいいか。」
俺は小さく息を吐いた。
「あとで、決めてやるよ。だから、待っててな?」
その言葉を聞いて、
黒猫は、ほんの少しだけ、しっぽを振った。
そのときは、まだ知らなかった。
まさかこの選択が、
俺自身を失う始まりだということを。
そしてこの猫が、
俺がなり得た、もう一つの姿だということを。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回 進路調整局。




