鉄の手が休むまで
プロンプト
登場人物:溶接工 30代 男性
暖簾が静かに揺れ、店内に金属と油の匂いをわずかに残した男が腰を下ろす。
『……溶接工です。三十代です』
カウンター越しに、店長は一枚の《登場人物の個人認証カード》を受け取る。
焼け跡のような細かな傷、夜勤と火花の履歴が、無言で刻まれている。
「店長、確認しました」
奥で、義手の金属が小さく鳴る。
「最初の一品は、火を扱う手を休ませるものにしましょう」
店長は鍋に水を張り、火を入れない。
代わりに、時間を入れる。
「溶かさず、焦がさず。今日は“戻す”料理です」
差し出されたのは、
《低温でほどいた牛すじと白葱の澄まし》
『……熱くないですね』
「ええ。あなたは、毎日十分すぎるほど熱を浴びていますから」
牛すじは、噛むほどにほどける。
白葱は、甘さだけを残して沈んでいる。
『仕事だと、ちゃんと“溶かさなきゃ”って思ってて。
強く、確実に、外れないようにって』
店長は、箸置きを少しだけ手前に寄せる。
「でも、全部を溶かす必要はない」
サポーターの男が、湯呑みを置く。
「今日は“つなげない時間”です」
『……外れたら困ると思ってましたけど
外しても、形は残るんですね』
澄ましの底で、牛すじが静かに揺れる。
火を使わずとも、仕上がった料理のように。
「ええ。あなた自身が、もう十分に形を保っています」
一度きりの店で、
最初の一品は、
溶接工の手から“力”を下ろすために、
静かに提供された。
店内の灯りが、わずかに落とされる。
昼と夜の境目のような静けさが、二人の間に置かれる。
サポーターの男が、次の皿を運ぶ前に、義手を一度、布で拭う。
「次、いきます」
店長はうなずき、客の手元を見る。
指の関節は太く、爪の縁に残る黒ずみは、まだ完全には落ちていない。
「二品目は、音のある料理にしましょう」
鍋に火が入る。
しかし、先ほどの激しさとは違う、短く、必要最低限の火。
差し出されたのは、
《鉄板で一瞬焼いた鯖と大根おろしの温冷》
『……焼き目、きれいですね』
「仕事柄、火花は派手でしょうが」
「料理の火は、見せびらかさなくていい」
鯖の皮は香ばしく、身はまだ白く、柔らかい。
大根おろしは冷たく、口の中で熱をさらっていく。
『現場だと、音がすごくて』
『削る音、叩く音、火花の弾く音……』
『静かになると、逆に落ち着かない時もあります』
サポーターの男が、鉄板を下げながら言う。
「音が止まると、仕事が終わった気がしないんですね」
『……そうかもしれません』
店長は、客の皿を見つめたまま、言葉を置く。
「でも今は、噛む音だけでいい」
「それも、仕事の一部です」
『噛むのも、仕事……ですか』
「ええ。体が自分に戻る作業です」
鯖を噛むたび、小さな音が店内に響く。
それは、切断でも溶接でもない、
壊さない音。
『……こういう音、久しぶりです』
サポーターの男が、湯を注ぐ。
「現場に持ち帰らなくていい音です」
『助かります』
客の肩が、ほんの少し下がる。
店長は、次の準備に入らず、あえて手を止める。
「三品目は、終わりを知らせる料理になります」
『……もう、そんな時間ですか』
「はい。この店は、一度きりですから」
鉄の匂いは、もう店内にない。
残っているのは、
噛む音と、湯気と、
火を使わない時間だけだった。
店長は、火を完全に落とす。
鍋も鉄板も使わない。
代わりに、小さな器を一つ、布の上に置く。
サポーターの男が、静かに最後の皿を運ぶ。
「こちらで、最後になります」
差し出されたのは、
《焙じ茶でほどく黒糖葛の温甘》
『……甘いんですね』
「ええ」
「今日は、締め固めない甘さです」
焙じ茶の香りが、先に鼻に届く。
黒糖は強く主張せず、葛は舌の上でほどけて消える。
『溶ける、っていうより……消える感じですね』
「溶けると、形が変わる」
「でも、消えると、役目を終える」
サポーターの男が、少し離れた位置で言う。
「現場だと、終わりが分かりにくい仕事ですよね」
『はい。終わっても、次の準備をしてて……』
『ちゃんと終わった、って感じがしない』
店長は、器の底を指で軽く示す。
「ここまで食べたら、今日は終わりです」
「続きを考えなくていい」
客は、最後の一口をゆっくり口に運ぶ。
『……確かに』
『これ以上、何も足さなくていいですね』
焙じ茶の余韻が、喉の奥で静かに消える。
店内に、音がなくなる。
作業音も、噛む音もない。
サポーターの男が、暖簾の方へ一歩下がる。
「出口は、いつも通りです」
客は立ち上がり、深く一礼する。
『ありがとうございました』
『今日は……ちゃんと、終われました』
店長は、目を伏せて答える。
「こちらこそ」
「また火花の中で、無事に」
暖簾が揺れ、男の背中が外の光に溶けていく。
一度きりの店に、
溶接工の夜が、静かに置かれた。
店長は、器を片づけながら呟く。
「今日も、つなぎすぎなかったな」
サポーターの男が、義手を鳴らして笑う。
「それで、いい店です」
灯りが落ち、
物語は、ここで完全に終わる。




