考えなくていい広告プランナーの夜
プロンプト
登場人物:広告プランナー 30代 女性
「……いらっしゃいませ。店長です」
薄い灯りの下、カウンターに腰を下ろした彼女は、名乗らない。ただ、バッグの中から一枚のカードを差し出す。
『今日は……少し、頭を休めたくて』
店長はカードに視線を落とし、静かにうなずく。
「承りました。言葉を作る方ですね。では最初は、考えなくても届く味からいきましょう」
サポーターの男が、義手で丁寧に器を温め、無言で差し出す。
「余白が多い仕事ほど、味は単純な方がいい」
店長はそう言って、湯気の立つ椀をカウンターに置いた。
《白味噌と焼き蕪の澄まし椀》
蕪は厚めに切り、表面だけを強く焼いている。香ばしさが先に立ち、そのあとで白味噌の丸みが追いかけてくる。出汁は主張しない。ただ、支えるだけ。
『……言葉にしなくても、伝わる感じですね』
「ええ。広告も料理も、全部を説明しすぎると、受け取る側が疲れてしまう」
サポーターの男が、小さく湯気を整えるように器の向きを直す。
「今日は、この店では“伝えなくていい時間”を出します」
彼女は一口、二口とすすり、肩の力が少し抜けたのが分かる。
『じゃあ……今日は、考えなくていい側でいてもいいですか』
「もちろんです。ここでは、それで正解です」
静かな一椀目が、彼女の中のスイッチを、そっと“オフ”にした。
店の奥で、火の音が小さく鳴る。
サポーターの男が、義手でフライパンを支え、一定のリズムで揺らしている。無駄のない動き。急がない。
店長はその横で、香りを確かめるように目を閉じた。
「次は、“選ばなくていい皿”です」
『選ばなくていい……』
「はい。広告は、常に“どれが正しいか”を決め続ける仕事でしょう」
彼女は、返事の代わりに小さく笑った。
『数字も、言葉も、全部が判断材料になりますから』
サポーターの男が、器を一枚、カウンターに置く。白でも黒でもない、曖昧な色合いの皿。
《鶏むね肉の低温蒸し 柚子胡椒香る青菜添え》
蒸した鶏は、驚くほどやわらかい。味付けは最小限で、噛むほどに淡い旨みが広がる。
柚子胡椒は、添えてあるだけ。使うかどうかは、客に委ねられている。
『……決めなくても、成立してますね』
「ええ。どちらでもいい、という状態そのものが完成です」
彼女はまず、そのまま一口。
次に、ほんの少しだけ柚子胡椒を乗せる。
『仕事だと、“どちらでもいい”は許されないのに』
「だからこそ、ここでは許します」
サポーターの男が、黙って水を注ぐ。その音が、判断の隙間を満たしていく。
『考えないって、手を抜くことだと思ってました』
「違います。“休ませる”です」
店長は、彼女の皿が少しずつ空いていくのを見て、火を弱めた。
『……頭の中の会議室が、今、静かです』
「それは、良い進行ですね」
二品目が終わる頃、彼女の背中は、来店時より少しだけ椅子に預けられていた。
言葉を作る人のための、言葉を使わない時間が、静かに流れていく。
店内の灯りが、わずかに落とされる。
音が減る。火の音も、人の気配も、必要な分だけ残る。
サポーターの男が、義手で包丁を置き、布で刃をぬぐう。その動作が、一区切りを告げていた。
「三品目は、“評価から外れる皿”にしましょう」
『評価から……』
「良いか悪いか、刺さるか刺さらないか。今日は、その軸を使いません」
彼女は少し考え、それから首を横に振る。
『考えないって言われたのに、癖ですね』
店長は小さく笑う。
「癖は悪くありません。ただ、今は席を外してもらうだけです」
サポーターの男が差し出したのは、深さのある小鉢。香りが先に立たない。視覚も静かだ。
《根菜と雑穀の温サラダ 胡麻だれ》
蓮根、牛蒡、人参。派手さのない素材が、同じ温度でまとまっている。
胡麻だれは、かけすぎない。絡めるのではなく、寄り添う量。
彼女は箸を入れ、ゆっくり噛む。
『……点数をつけようとすると、困りますね』
「それでいいんです」
『褒める言葉も、改善点も、浮かばない』
「仕事としては不合格。でも、人としては合格です」
その言葉に、彼女は少しだけ息を吐いた。
『ずっと、“意味があるか”で食べてました』
「意味は、あとから勝手についてきます」
サポーターの男が、器を回収する。その手つきは、急かさない。
沈黙が、居心地の良い重さでカウンターに落ちる。
『……ここに来て、初めて“何も生まなくていい時間”をもらった気がします』
「広告は、何かを生ませる仕事ですからね」
店長は、次の仕込みに入る前に、彼女の方を見た。
「最後は、終わりをちゃんと知らせる甘味です」
彼女はうなずく。
『それ、大事ですね。終わりが分からないと、次に行けない』
「ええ。では、もう少しだけ」
店は一度きり。
その約束を、誰も口にしないまま、最後の一皿の時間が近づいていた。
サポーターの男が、奥から小さな鍋を運んでくる。
義手が触れる取っ手には、熱が残らないよう布が巻かれている。
店長は鍋の中を覗き、火を止めた。
「最後は、“何も持ち帰らない甘味”です」
『……仕事柄、つい“持ち帰れる何か”を探してしまいます』
「今日は、空のまま帰ってください」
静かに置かれたのは、透明感のある器。
《焙じ茶の温かい葛寄せ》
焙じ茶は濃くしすぎず、香りだけを残している。
葛は固めすぎず、箸を入れるとゆっくり形を失う。
彼女は一口含み、目を伏せた。
『甘いのに、結論がない』
「ええ。締め切りも、コピーも、ありません」
サポーターの男が、そっと湯気を逃がすように器の位置を変える。
『終わりって、こんなに静かでいいんですね』
「静かな終わりは、次を急がせません」
彼女は、最後の一口を口に運び、しばらく箸を置いた。
『……明日、また企画は続きます。でも』
「今日は、ここで一区切りです」
店長は、カウンターの内側で深く一礼する。
「この店は、一度きり。次はありません」
彼女は驚いたように笑い、でもすぐに納得した顔になる。
『だから、ちゃんと終われるんですね』
「ええ。続きを作らなくていいように」
サポーターの男が、静かに扉を開ける。夜の空気が、少しだけ流れ込む。
彼女は立ち上がり、振り返らずに言った。
『……ありがとうございました。言葉が、少し軽くなりました』
扉が閉まり、灯りが落ちる。
カウンターには、もう客はいない。
だが、評価されない時間だけが、器の余熱として残っていた。




