発酵の途中で休む席
プロンプト
登場人物:清酒製造工 50代 男性
暖簾が静かに揺れ、白木の香りがわずかに残る店に、その男は入ってきた。
作業着の袖口には、洗っても落ちない米と水の記憶が染みている。
『……一人、いいですか』
「どうぞ。店長が預かります」
サポーターの男が、義手でそっと椅子を引いた。
男は軽く会釈し、腰を下ろす。
「では最初の一品を。
本日は“個人認証カード”から、仕立てています」
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《麹室の白粥》
湯気は控えめで、香りは甘く、しかし主張しない。
一口目に塩気はなく、後から米の奥行きだけが残る粥だった。
『……ああ』
男は思わず声を漏らす。
『若い頃、麹室で夜を越したあとに、これに近いものを食べた気がします。
酒じゃないのに、仕事の続きをしている気分になる』
「酒を造る方ほど、酒で休まない時間が必要になるんです」
サポーターの男が、静かに頷く。
「発酵は、待つ仕事です。
でも“待っている自分”を、誰も褒めてくれない」
男は匙を止め、湯気の向こうを見る。
『最近は、数字と予定ばかりで。
米や水と向き合っていた頃の自分が、遠い』
「遠くなったのではありません。
今日ここで、ちゃんと思い出せています」
粥を食べ終える頃、男の肩から力が抜けていた。
何かを決断したわけでも、答えが出たわけでもない。
ただ、“戻れる場所が体の中にある”と、確かめただけだった。
「次は、火を入れます。
香りを“管理しなくていい”一皿を」
サポーターの男が、無言で奥へ下がる。
この店は一度きり。
だからこそ、今日の一品は、静かに深く残る。
サポーターの男が戻ってきたとき、店の空気がわずかに変わった。
火を使ったあとの、落ち着いた温度が漂う。
「お待たせしました。二品目です」
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《甑蒸し鶏と酒粕の温餡》
蒸気で仕上げた鶏は柔らかく、表面にかけられた餡は白濁している。
だが香りは強くなく、鼻先をかすめる程度だった。
『……香りが、控えめですね』
「はい。
香りを“出さない”判断も、造りの一部ですから」
男は箸を入れ、ゆっくり噛みしめる。
酒粕の甘みと、鶏の旨味が、喉の奥でほどけていく。
『若い頃は、香りを立たせることばかり考えていました。
評価されやすいですから』
「数字も言葉も、香りの強いものを好みます」
サポーターの男が、小さく息をつく。
「でも、長く残るのは、こういう味です」
男は箸を置き、少し笑った。
『最近、蔵の若い者に
“親方は判断が遅い”って言われましてね』
「それで、どう思われましたか」
『……正直、腹は立ちました。
でも、間違ってないとも思った』
しばらく沈黙が落ちる。
鍋の中で、餡がかすかに揺れる音だけが聞こえた。
「待てる人がいなくなると、
造りは早くなります。
でも、深さは浅くなる」
男は、もう一口だけ箸を進めた。
『自分が、邪魔になっているのかと思う夜があって』
「邪魔な人は、味に責任を持ちません」
その言葉に、男の背筋がすっと伸びた。
「次が最後になります」
サポーターの男が、甘味の器をそっと置く。
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《澄酒の雪解け羹》
酒は使っていない。
だが、口に含むと、冷たい水と米の記憶が、静かに広がった。
『……酔わないですね』
「はい。
でも、“仕事を終えた体”には、ちょうどいい」
男は器を両手で包み、最後の一口を味わう。
『明日も、蔵に立てそうです』
「それで十分です」
男は立ち上がり、深く頭を下げた。
『ありがとうございました』
「こちらこそ。
良い発酵を」
サポーターの男が扉を開ける。
外は、いつもの道。
だが男の足取りは、来たときよりも、静かで確かだった。
暖簾が戻り、店はまた、次の誰かを待つ。




