線を引く手を休める夜
プロンプト
登場人物:司法書士 40代 男性
店の扉が静かに開き、男が一人、席に腰を下ろす。
『……今日は、頭を使いすぎました』
「店長、個人認証カードを確認しました」
「司法書士、40代、男性。書類と責任の重さを、毎日きちんと抱えている方ですね」
サポーターの男は、義手で丁寧に湯を沸かし、無言で頷く。
「店長から、最初の一品を出します」
《条文を閉じる白粥》
湯気は控えめで、香りも強くない。ただ、白米を時間をかけてほどいた、余計なもののない一椀。
「これは“判断しない時間”のための料理です」
「正しいかどうか、間違っていないかを考えなくていい」
「今日は、条文も期限も、ここでは閉じてください」
『……味が、薄いですね』
「ええ。だから、口の中で考えが止まります」
「噛まなくていい、決断しなくていい」
サポーターの男が、小さな漬物を一切れだけ添える。
「選ぶのは、後でいい」
「今はただ、飲み込むだけで」
男はゆっくりと粥を口に運び、箸を置いた。
『……久しぶりに、何も整理しなくていい感じがします』
「それで十分です」
「ここは一度きりの店ですから」
湯気だけが、静かに二人の間を流れていた。
男が椀を空にすると、呼吸の速さがわずかに変わったのを、店長は見逃さない。
「……次に行きましょうか」
『お願いします』
サポーターの男は義手で包丁を持ち、音を立てないように野菜を切る。その所作は正確だが、急がない。
「店長から、二品目を」
《境界線をほどく温野菜》
湯にくぐらせただけの根菜と葉物。味付けは最小限で、塩も振られていない。代わりに、小さな器に胡麻だれが添えられている。
「これは“線を引かない”料理です」
「白か黒か、こちら側か向こう側か」
「司法書士の仕事は、境界線を引くことで人を守る」
男は黙って頷く。
「でも、今日は」
「自分の内側にまで、線を引かなくていい」
『……つい、自分にも厳しくなります』
「ええ」
「正確な人ほど、そうなります」
サポーターの男が、そっと器を押し出す。
「この胡麻だれは、かけてもいいし、かけなくてもいい」
「全部同じ味にしなくていい」
男は少し考え、一本の人参だけに、だれをつけた。
『……選ばなくてもいいって言われると、逆に、選びたくなりますね』
「それが、自然です」
「決める力が弱っているわけじゃない」
「使いすぎて、少し疲れているだけ」
男は野菜を噛みしめ、目を伏せた。
『今日は、依頼人の人生を左右する書類を書きました』
『正しいはずなのに……重さが、残る』
「残っていいんです」
「全部片づけなくていい」
店長は、少しだけ声を落とす。
「ここでは」
「“責任を背負わない自分”も、同席していい」
湯気が再び、二人の間に立ち上る。
次の一皿の準備をする音が、遠くで静かに始まっていた。
厨房の奥で、火を弱める音がした。強さを誇らない、ぎりぎりの温度。
サポーターの男が、義手で鍋を持ち上げ、慎重に器へ注ぐ。
「……三品目です」
《期限のない椀》
澄んだ出汁に、柔らかく煮含めた豆腐と、わずかな生姜。刻まれた青菜が浮かぶだけの、終わりを急がない一椀。
「これは、“終わらせなくていい時間”の料理です」
「今日中に片をつけなくていい」
「答えを出さなくても、期限は切れません」
『……司法書士の仕事は、期限だらけです』
「ええ」
「だからこそ、期限のないものを口にします」
男は椀を両手で持ち、しばらく湯気を眺めてから、そっと口をつけた。
『……出汁が、逃げないですね』
「急がせていませんから」
「待てば、ちゃんとそこにいる味です」
サポーターの男が、生姜を少しだけ追加する。
「効かせすぎない」
「でも、消えない」
男は一口ごとに、肩の力が抜けていくのを感じていた。
『依頼人には、“大丈夫です”と言えるのに』
『自分には、なかなか言えなくて』
「言わなくていい」
「今日は、“大丈夫じゃないまま”で座っていてください」
沈黙が落ちる。だが、重くはない。
「店長の店は、一度きりです」
「だから、変わらなくていい」
「軽くなろうともしなくていい」
男は、最後の一滴まで椀を飲み干した。
『……明日、また書類に向かえそうです』
「それは」
「料理の力じゃない」
「あなたが、休むことを許しただけです」
サポーターの男が、静かに器を下げる。
厨房の灯りが、少しだけ柔らかくなる。
次に出るのは、終わりをやさしく告げる甘味だった。
サポーターの男が、最後の器を両手で運んでくる。義手が触れる木の盆は、音を立てない。
「……これで、最後です」
《登記簿を閉じる甘味》
小さな寒天に、黒糖の蜜をほんの少し。上には、火を入れすぎていない小豆が数粒だけ添えられている。
「甘さは控えめです」
「達成感でも、ご褒美でもない」
「“今日はここまで”と、そっと閉じるための甘味」
男はスプーンを入れ、ゆっくり口に運ぶ。
『……甘いのに、残らない』
「ええ」
「持ち帰らなくていい味です」
『仕事を終えるたびに』
『どこか、まだ終わっていない気がしていました』
「司法書士は」
「書類を完成させても、人の人生までは閉じられない」
「だから、気持ちだけが、ずっと開いたままになる」
サポーターの男が、静かに湯のみを差し出す。
「これは、お茶です」
「判断を洗い流すためじゃない」
「区切りをつけるための、ただの温度」
男は寒天を食べ終え、深く息を吐いた。
『……ここで終わっても、いいんですね』
「いいんです」
「終わらせるのは、投げることじゃない」
「今日はここまで、と線を引くことです」
男は立ち上がり、少しだけ頭を下げた。
『ありがとうございました』
『……また来たくなります』
「来られません」
「この店は、一度きりです」
男は一瞬、困ったように笑い、そして納得したように頷いた。
『だから、覚えておける』
「ええ」
「それで十分です」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
店内には、使われなかった言葉と、空になった器だけが残った。
「……今日も、静かでしたね」
サポーターの男は、義手で最後の皿を拭き、灯りを落とす。
この店は、もう二度と開かない。
だが、司法書士の明日の机には、
“今日はここまででいい”という感覚だけが、そっと残っていた。




