艶を仕上げない日
プロンプト
登場人物:漆器製造工 60代 男性
店の戸が静かに開き、年季の入った手が暖簾をくぐる。
カウンターの奥で、店長はそっと一枚のカードを受け取る。
「……漆器製造工、60代。長い時間、同じ艶と向き合ってきた手ですね」
サポーターの男が、義手で静かにカウンターを拭き、うなずく。
「削って、塗って、待つ。
その“待つ”時間まで仕事にしてきた人のカードです」
『今日は、少し肩の力を抜きたくてね』
店長は火を弱め、鍋の中を見つめながら続ける。
「では最初の一品。
“仕上げない”時間を思い出してもらいましょう」
サポーターの男が、器を差し出す。
それは新品ではない、あえて使い込まれた漆の椀。
「今日のために選びました。艶が落ち着いて、音も柔らかい」
店長は静かに盛り付ける。
「お出しします」
《時雨にほどける白湯仕立て》
『……ああ、香りが優しい』
「完成を急がない味です。
一口ごとに、口の中で“待つ”料理」
サポーターの男が、少しだけ笑う。
「塗り重ねない日があっても、艶は消えませんから」
店長はうなずき、客の箸の動きを見守った。
「この店は一度きり。
でも、この感覚は、明日も手の中に残ります」
湯気の向こうで、男の肩が、ほんの少しだけ下がった。
椀が静かに下げられる。
漆の底が、木の卓に触れる音だけが残った。
『……味が、途中で終わる感じがしないね』
店長は小さく息を吸い、次の鍋に向かう。
「ええ。
“完成しない工程”を、あえて残しました」
サポーターの男が、義手で布を整えながら口を挟む。
「塗り直せない日があっても、
器は器の役目を続けますからね」
『……若い頃はさ、
手を止めるのが怖かった』
火を落とす音が、言葉の合間に溶ける。
『止まったら、技が逃げる気がして』
店長は、今度は焼き台に何も置かないまま話す。
「逃げませんよ。
積んだ手触りは、手の奥に沈んでいくだけです」
サポーターの男が、新しい器を置く。
こちらもまた、派手さのない漆皿。
「光を映さない方の艶です」
店長が盛り付ける。
「二品目はこちら」
《削り跡を残した根菜の温和え》
『……削り跡、消してないんだな』
「はい。
揃えないことで、噛むたびに“手の動き”が戻ってきます」
箸が入る。
音は小さいが、確かに歯に伝わる感触がある。
『……ああ』
男は、しばらく黙って噛み続けた。
『若い職人にさ、
“きれいにしすぎるな”って言えなくなってた』
サポーターの男が、静かに言う。
「自分が、きれいにし続けてきたからですね」
店長は頷く。
「でも今日は、
“きれいにしなくてもいい自分”を味わう日です」
『……そうか』
男は皿を見つめ、ふっと息を吐いた。
『教える側に回ったつもりで、
まだ仕上げに追われてたな』
店の外で、風が鳴る。
店長は次の準備に入らず、ただ言った。
「次は、終わりを急がない甘味です」
サポーターの男が、灯りを少し落とす。
「艶が、静かに沈む時間を」
男は、深く背もたれにもたれた。
『……この店、
手を休ませるのが上手だ』
店長は微笑む。
「漆も、人も、
休んだ分だけ、次の艶が出ますから」
静けさの中、
最後の一皿が、ゆっくり近づいてきていた。
甘味の器が置かれる前に、店長は一度だけ手を止めた。
その沈黙は、仕事場で漆が乾くのを待つ時間に似ていた。
サポーターの男が、義手で小さな木箱を開ける。
中には、艶を抑えた黒漆の小皿。
「派手さはありません。
でも、時間の影が映る皿です」
『……いい黒だ』
店長は頷き、最後の仕上げに入る。
「終わりを告げる甘味。
でも、区切りはつけません」
《余白に沈む胡桃羹》
とろりと落ち着いた色合いが、皿の中央に静まる。
『……余白が多いな』
「ええ。
食べ終えた後、何も足さなくていいように」
サポーターの男が、そっと言葉を添える。
「完成させるのは、
食べた人の“これから”ですから」
男は一口、口に運ぶ。
噛まず、舌の上で待つ。
『……甘いけど、主張しない』
「仕事を離れた時の、手の感じに近づけました」
しばらくして、男がぽつりと呟く。
『明日も、工房には行くよ』
店長は驚かず、静かに答える。
「ええ。
行かない選択を勧める店ではありません」
『でもな』
男は、空になった皿を見つめる。
『今日は、
“仕上げなくていい時間”を、持っていけそうだ』
サポーターの男が、椀を下げながら言う。
「それが一番、艶を守ります」
店長は最後に、暖簾の方を見る。
「この店は一度きり。
次はありません」
男は立ち上がり、深く一礼した。
『……十分だ』
戸が閉まる。
外の気配が遠のく。
店長は、火を落とし、鍋を洗う。
サポーターの男が言う。
「いい手でしたね」
「ええ。
休むことを知っている手です」
店内に残るのは、
使い込まれた漆の艶と、
“仕上げない余韻”だけだった。
戸が閉まってから、しばらく。
店の中には、もう客の気配はない。
サポーターの男が、義手で最後の器を拭きながら言う。
「今日の人、
“終わった後の手”をしてましたね」
店長は、棚に漆の椀を戻しながら答える。
「ええ。
作り続けた人ほど、
終わり方を忘れてしまう」
火の消えた台所は、仕事場というより、乾燥室のように静かだ。
サポーターの男が、少し間を置いて口を開く。
「……あの人、
たぶん明日、若い職人に何か言いますね」
店長は小さく笑う。
「言わなくてもいいんです。
背中の力が抜けていれば、それで伝わる」
店の明かりを一つ、また一つと落とす。
「艶は、教えないものですから」
サポーターの男が暖簾に手をかける。
「この店も、
今日で終わりですね」
「ええ。一度きり」
店長は最後に、空のカウンターを見る。
「でも、
あの人の工房のどこかに、
今日の“余白”は残ります」
暖簾が下りる。
外では、夜露が静かに降りている。
乾くのを急がない、ちょうどいい湿り気。
誰にも見られず、
それでも確かに、
次の艶の準備だけが、始まっていた。




