鏡を置かない店で、素顔に戻る
プロンプト
登場人物:メイクセラピスト 30代 女性
店の扉が静かに開き、彼女は少し肩をすくめるようにして入ってきた。
鏡を見る仕事をしている人特有の、姿勢の良さと、どこか疲れを隠す呼吸。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
サポーターの男は、無言で椅子を引き、テーブルを整える。義手の先が、木の縁を確かめるように一度なぞった。
店長はカウンターの奥で、カードを一枚、指先で受け取る。
メイクセラピスト/30代/女性。
「……“人の顔を整える仕事”だね」
店長は小さく頷き、火を入れる。
「店長から、最初の一品を出します」
サポーターの男が、皿を温めて待つ。
⸻
《素顔に戻る前菜・白いスープ》
湯気は控えめで、香りだけが先に届く。
色はほとんどなく、白に近い。
店長は皿を置きながら言った。
「これは、直さない料理です。足さないし、引かない」
スプーンを入れると、柔らかく揺れるだけで、主張はしない。
『……味が、静かですね』
「ええ。仕事で“きれい”を作る人ほど、何もしない時間が必要になる」
サポーターの男が、横で静かに水を注ぐ。音は最小限。
「この一皿は、誰かに見せる顔じゃない。自分だけが知っている素顔に戻るための入口です」
彼女は一口、口に含み、少し目を伏せた。
『……仕事の後、鏡を見ない時間って、久しぶりかもしれません』
店長はそれ以上、説明しない。
ただ、火を落とし、次の準備に入る。
「今日は一度きりの店です。焦らなくていい」
白いスープの湯気が消える頃、
彼女の肩の力も、少しだけ抜けていた。
白い皿が下げられると、店の中に一段、静けさが深くなる。
彼女は無意識に、頬に触れそうになった手を途中で止め、そのまま膝の上に置いた。
サポーターの男が、新しいカトラリーをそっと並べる。金属音は、ほとんど鳴らない。
店長は、火を弱めたまま、ゆっくり鍋を回す。
「次は、“仕事の癖を外す一皿”です」
彼女は顔を上げる。
『外す……ですか』
「ええ。メイクセラピストは、相手を見る目が鋭すぎる」
一瞬、彼女の口角が困ったように上がる。
『……よく言われます。電車でも、無意識に見てしまって』
店長は頷く。
「今日は、見る側を休ませます」
⸻
《鏡を伏せる温菜・曇りガラスの蒸し野菜》
透明な蓋の内側が、湯気で曇っている。
中身は、あえてはっきり見えない。
サポーターの男が、彼女の前で蓋を開ける。
湯気が立ち上がり、輪郭だけが浮かぶ。
「形を評価しないために、最初は“よく見えない”状態で出します」
『……面白いですね』
「仕事では、輪郭・左右差・色味。全部、判断する」
店長は箸を差し出す。
「でもこれは、判断しなくていい。温度と柔らかさだけで食べてください」
彼女は少し戸惑いながら、一口。
噛んだ瞬間、思わず息が漏れる。
『……甘い。考える前に、口が反応します』
「それでいい」
サポーターの男が、水を足す。その手つきは、視線を奪わない。
彼女は二口目を食べながら、ぽつりと漏らした。
『私、いつも“相手に似合うか”を考えてて……
自分に何が似合うか、考えなくなってました』
店長は火を止める。
「似合うかどうかは、他人の視線の言葉」
一拍、置いて。
「“心地いいかどうか”は、自分の言葉です」
彼女は箸を止め、曇った皿を見つめた。
『……今日は、自分の言葉が、少し聞こえます』
店の時計が、静かに一秒進む。
店長は、最後の準備に入った。
「最後は、落とさなくていい化粧のような品物です」
サポーターの男が、小さく頷く。
この店が一度きりであることを、
誰も言葉にしなくても、空気が知っていた。
蒸し野菜の皿が下げられると、彼女の指先はもう、顔に触れようとしなかった。
代わりに、深く一度、息を吸う。
サポーターの男が、最後の皿のために、テーブルの中央を整える。
義手が触れる木目の音は、どこか穏やかだ。
店長は、甘味用の小さな鍋を火にかける。
混ぜない。待つ。
“整えない”時間を、あえて残す。
「最後は、落とさなくていい化粧です」
彼女は小さく首を傾げる。
『……落とさなくて、いい?』
「仕事のあと、必ず落とすだろう?」
『はい。肌のために、気持ちのために』
店長は頷き、皿を差し出す。
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《そのまま眠る甘味・体温のミルクプリン》
温かくも冷たくもない。
スプーンを入れると、わずかに形が揺れ、すぐ戻る。
「これは、消さなくていい」
『……甘さが、控えめですね』
「“残っていいもの”の味です」
一口食べた瞬間、彼女の表情が、仕事中とは違う緩み方をした。
『……誰にも見せない顔のまま、終われる感じ』
店長は、少しだけ笑う。
「この店は、鏡を置かない」
サポーターの男が、そっと照明を落とす。
影が柔らかくなり、輪郭が曖昧になる。
彼女は、プリンを食べ終え、しばらく黙っていた。
『……私、きれいにすることが仕事で。
でも、きれいでいようとしなくていい時間が、こんなに楽だって……』
店長は、カウンター越しに静かに答える。
「だから、また明日、きれいにできる」
彼女は立ち上がり、深く一礼した。
『ありがとうございました』
サポーターの男が、扉を開ける。
彼女は最後に一度だけ、店内を見渡し、
“確認する目”ではなく、
“感じる目”で、空間を受け取った。
扉が閉まる。
店長は火を消し、エプロンを外す。
「今日も、一度きりで十分だ」
サポーターの男は何も言わず、
ただ、静かに店の灯りを落とした。
この店は、もう二度と開かない。




