拍手のない終演
プロンプト
登場人物:ミュージカル俳優 50代 男性
暖簾が静かに揺れ、男が一人、店に入ってくる。
『……ここが、噂の店か』
「いらっしゃいませ。店長です」
「サポーターの男、こちらへどうぞ」
サポーターの男は無言で椅子を引き、男の動きを自然に支える。
店長は、差し出された登場人物の個人認証カードに目を落とし、ゆっくりとうなずいた。
「ミュージカル俳優、50代。長い拍手と、長い沈黙の両方を知っている人ですね」
「最初の一品は、声を使わずに“舞台に立つ感覚”を思い出してもらいます」
サポーターの男が、静かに皿を置く。
《幕間の温度》
湯気は控えめ、香りも強くない。だが、スプーンを入れた瞬間、層になった食材がゆっくりと崩れ、口の中で時間差で味が立ち上がる。
『……これは』
「歌わない時間の、あなたの仕事です」
「声を出さなくても、立ち姿だけで空気を変えてきた」
「その“間”を、今日は味にしました」
男は目を閉じ、ひと口ごとに呼吸を整えていく。
『最近はな……声が出るかどうかばかり、気にしていた』
「出るかどうかは、今日は考えなくていい」
「舞台に“いる”感覚だけ、思い出せばいいんです」
サポーターの男は、何も言わず、水を少しだけ足した。
皿が空になる頃、男の背筋は、わずかに伸びていた。
「次は、拍手のない場所で続けてきた時間を、料理にします」
「よろしければ、少しだけ、ここで休んでください」
店内には、カーテンコール前のような、静かな余韻が残っていた。
男は椅子に深く腰を下ろし、天井を見上げたまま小さく息を吐いた。
『幕が下りても、次の舞台のことを考えてしまう』
『休んでいるのに、ずっと稽古中みたいだ』
「それでいい役者もいます」
「でも今日は、“舞台にいない時間”を食べてもらいます」
店長は厨房に戻り、火を使わず、音も立てずに手を動かす。
サポーターの男は、男の前に新しいカトラリーを置いた。
《拍手の届かない稽古場》
冷たくも温かくもない、不思議な温度。
噛むほどに、最初は単調だった味が、少しずつ複雑になる。
『……派手じゃないな』
「誰も見ていない場所の味です」
「成功した夜より、失敗した稽古の回数の方が、あなたを作ってきた」
男は、ふっと笑った。
『若い頃は、主役の歌だけが自分だと思っていた』
『今は……コーラスの一音がズレるだけで、全体が崩れるのが分かる』
「それに気づいた人は、もう舞台から降りません」
「立ち位置が変わるだけです」
サポーターの男が、静かに頷くように皿を下げた。
男はしばらく黙り込み、最後の一口をゆっくりと味わった。
『拍手がなくても、続けてきた理由が……少し分かった気がする』
「今日は、それを答えにしなくていい」
「“続いている”事実だけで、十分です」
次の皿を運ぶ前、店長は男の目を見て、穏やかに告げた。
「最後は、終演を告げる甘味です」
「終わりを知らせて、明日を連れてくる一品になります」
店の奥で、甘い香りが、ようやくはっきりと立ち上がり始めていた。
甘い香りが、照明が落ちたあとの客席のように、ゆっくりと店内に満ちていく。
サポーターの男が、白い皿をそっと運んできた。
《カーテンコールのあと》
控えめな甘さ。ひと口目は驚くほど静かで、噛むほどに余韻だけが長く残る。
派手な装飾はない。だが、最後に微かな温かさが舌に残った。
『……終わった、って感じがするな』
「はい」
「“まだやれる”でも、“もう終わりだ”でもない」
「今日は、ちゃんと終わらせる味です」
男はスプーンを置き、両手を膝に置いた。
舞台袖で深呼吸する時と、よく似た仕草だった。
『若い頃は、終わるのが怖かった』
『終演は、役が奪われるみたいでな』
「今は?」
男は少し考え、肩を落として笑った。
『終わったから、次の役に行ける』
『そう思える』
店長は小さく頷いた。
「それが、長く舞台に立った人の身体です」
「頭じゃなく、身体が知っている」
サポーターの男が、静かに会計の札を差し出す。
金額は書かれていない。
『……これで、いいのか』
「ええ」
「あなたが、今日ここで下ろした幕の分です」
男は立ち上がり、軽く一礼した。
それは客席ではなく、誰もいない舞台に向けた礼のようだった。
『また……来てもいいのか?』
「申し訳ありません」
「この店は、一度きりです」
男は驚いた顔をしたあと、ゆっくりと息を吐いた。
『……それでいいな』
扉の前で、男は一度だけ振り返る。
『今日は、歌わなかった』
『でも、ちゃんと舞台に立っていた気がする』
「それで、十分です」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
店内には、終演後の静けさだけが残った。
サポーターの男が、小さく呟いた。
「……いい舞台でしたね」
「ええ」
「とても、いい終演でした」
暖簾が揺れ、店はまた、次の“役者”を待つことなく、静かに灯りを落とした。




