沖から戻るまでの四皿
プロンプト
登場人物:海人さん 40代 女性
店の扉が、波の引く音のように静かに開いた。
『……こんばんは』
カウンターに腰を下ろした女性の前に、小さなカードが差し出されている。
そこには、必要最小限の文字だけが記されていた。
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《登場人物の個人認証カード》
・名前:海人
・年齢:40代
・性別:女性
・職業:海に関わる仕事(詳細非公開)
・現在の状態:身体は動いているが、心は少し沖に出たまま
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「店長、確認しました」
義手を持つ男が、カードをそっとカウンターに戻す。
「ありがとうございます」
店長は一度だけ頷き、火を入れないまな板の前に立った。
「店長、最初の一品はこちらです」
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《潮待ちの白身と柑橘の静置》
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皿には、極薄に切られた白身魚。
火は通さず、塩も最低限。
添えられているのは、果汁を絞り切らない柑橘の皮だけ。
「この料理は、“何もしない時間”のための一皿です」
店長は包丁を置いたまま、女性を見ずに続ける。
「潮が満ちるのを待つ間、漁師は海を動かしません。
それと同じで、今は味を足さなくていい」
『……料理なのに、待つんですね』
「はい。食べる側が、追いつくまで」
サポーターの男が、静かに水を置く。
「温度は、海に近づけています」
女性は一口、ゆっくりと口に運ぶ。
噛むほどに味が出るわけではない。
ただ、舌の上に“冷たい静けさ”だけが残る。
『……波の音が、少し遠くなった気がします』
店長は、ようやく微かに笑った。
「それで十分です。ここは一度きりの店ですから」
次の一皿は、
“海から戻ってきたあと”のために用意されている。
女性は皿を置き、しばらく言葉を探さなかった。
探さなくても、ここでは問題がないと知ったからだ。
サポーターの男が、空いた皿を静かに下げる。
「店長、二品目の準備が整いました」
「ありがとうございます」
店長は、今度は火を入れる。
だが、強くはしない。鍋の底で、音が生まれない程度の温度。
「海人さん、次は“戻るための一品”です」
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《波間で温めた貝と白湯の椀》
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小さな椀の中に、ふっくらと開いた貝。
出汁は透明に近く、香りだけが先に立つ。
「海の仕事をしている方ほど、身体だけ先に戻って、心が遅れることがあります」
『……ありますね』
「この椀は、噛まずに飲めます。
戻ってくる途中で、立ち止まらなくていいように」
サポーターの男が、椀の位置をほんの少し手前に寄せる。
「温度、確認済みです」
女性は両手で椀を包み、息を整えてから口に運ぶ。
『……あ、あったかい』
その一言が、今日初めて、感情を含んだ声だった。
「温かさは、意志より先に届きます」
店長は鍋の火を落とす。
「無理に“切り替えよう”としなくていい。
この一品は、“戻ろうとしないで戻る”ための料理です」
女性は、椀を空にするまで、何も言わなかった。
だが、肩の位置が、ほんの少しだけ下がっている。
『……沖に出てた自分が、岸を見つけた感じです』
「ええ」
店長は、次の仕込みに手を伸ばす。
「では三品目は、
“岸に立ったあと、何をしないか”を決める料理になります」
サポーターの男が、無言でうなずいた。
外では、波の音が一段、近くなっていた。
店の奥で、弱い火が消えた。
それは「次に何かを始めるため」ではなく、
「もう始めなくていい」と伝える合図のようだった。
サポーターの男が、白い小皿を二枚、重ねて運んでくる。
「店長、三品目です」
「ありがとうございます」
店長は、皿を一度伏せたまま、女性の前に置いた。
「海人さん。
三品目は、食べても食べなくても構いません」
『……そんな料理、初めてです』
「でしょうね」
店長は、皿をゆっくりと返す。
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《岸に上がった布と海塩》
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そこにあるのは、温められた柔らかな布。
その端に、指先ほどの粗い海塩が添えられている。
『……食べ物じゃない』
「はい。これは“口に入れない料理”です」
サポーターの男が、布の温度を確かめるように、そっと空気に触れさせる。
「海から上がったあと、人はすぐに何かをしようとします」
店長は、海人さんの手元を見る。
「でも本当は、
“濡れている自分を拭く時間”が、いちばん先です」
『……何もしない、ってことですか』
「正確には、“次を決めない”」
布は、湯と潮の間の温度。
触れれば、身体の境界がはっきりする。
女性は、布を手に取る。
掌に、じんわりと温かさが残る。
『……今日、誰にも触れてもらってなかった』
その言葉は、波打ち際の泡のように、すぐに消えた。
「それでいい」
店長は、目を伏せる。
「この一品は、
“岸に立ったまま、立ち去らない”ための料理です」
サポーターの男が、塩を少しだけ皿の中央に寄せる。
「使わなくても、置いておくだけで十分です」
女性は、塩に触れず、布だけを畳んだ。
『……急がなくていい場所が、まだあったんですね』
「ええ。ですが——」
店長は、ゆっくりと顔を上げる。
「この店は、一度きりです」
外の波音が、また少し遠のく。
それは、引き潮ではなく、
静けさが、自分の中に戻った音だった。
店長は、最後の仕込みに入る。
甘さも、励ましも、意味づけもしない
終わりのための一皿を。
店内の灯りが、さらに一段落とされた。
影が増えたのではない。
輪郭が、もう必要なくなっただけだった。
サポーターの男が、最後の皿を両手で運ぶ。
「店長、デザートです」
「ありがとうございます」
店長は、皿を置いたあと、少しだけ間を置いた。
説明を急がない沈黙。
「海人さん。
これは“頑張った人へのご褒美”ではありません」
『……はい』
「“ちゃんと戻ってきた人”に出す、最後の一品です」
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《引き潮のあとに残る甘み》
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皿の中央には、ごく小さな寒天。
色はほとんどなく、
上に一滴だけ、蜂蜜にも似た透明な甘み。
「海が引いたあと、
砂浜には何もないようで、実は全部残っています」
店長は、皿から目を離さずに続ける。
「今日の時間も同じです。
意味を拾わなくても、
教訓にしなくても、
体のどこかに沈みます」
サポーターの男が、静かにスプーンを添える。
「一口で終わります」
女性は、迷わず口に運ぶ。
『……甘い』
それ以上の言葉は、出てこなかった。
必要な感想は、もう身体が引き受けている。
「それで、十分です」
店長は、手を止め、深く一礼する。
「この店は、二度と現れません。
ですが——」
一瞬だけ、声が柔らぐ。
「今日の“何もしなかった時間”は、
これから先、何度でも再現できます」
サポーターの男が、扉を静かに開ける。
外には、夜の海の匂い。
女性は立ち上がり、振り返らずに言った。
『……また、沖に出ても、大丈夫そうです』
「ええ」
店長は、最後まで見送らない。
「戻る岸を、もう知っていますから」
扉が閉まる。
波の音はしない。
だが店内には、確かに、海が一度通り過ぎた気配だけが残っていた。




