サイレンのあとに、噛む時間
プロンプト
登場人物:救急隊員 30代 男性
静かな扉の音とともに、男が入ってくる。
『……遅くに、すみません』
「いえ、ようこそ。店長です」
カウンターの奥で、店長は一枚のカードに目を落とす。
個人認証カード:救急隊員/30代/男性
染みついた緊張、夜の連続、誰かの「今」を背負う仕事。
「サポーターの男、下ごしらえを」
「「了解です」」
店長は火を弱め、音を立てない鍋を選ぶ。
「店長から最初の一品を出します。
“戻ってくる場所”を思い出せるように」
差し出された湯気は、強くない。
《白だし仕立ての柔らか鶏雑炊》
鶏はほぐしすぎず、米は形を残し、塩気は最低限。
噛むほどに、身体の奥でほどけていくような温度。
『……救急車の中って、いつも音が多いんです』
「ええ」
『サイレン、無線、呼吸の音。
止めちゃいけない時間ばかりで』
店長は頷くだけで、言葉を足さない。
『ここ、音が少ないですね』
「今は、止めていい時間です」
男は一口、また一口と、ゆっくり箸を進める。
肩が、わずかに下がる。
「“誰かを救う前に、まず自分が戻る”
そのための一品です」
サポーターの男が、そっと湯を足す。
『……助かります』
店の時計は鳴らない。
この店は、一度きり。
だからこそ、この一杯は、確かにここに残る。
男は器を置き、しばらく手のひらで温もりを確かめていた。
『……さっきの現場で、助けられなかった人がいました』
店の空気が、わずかに沈む。
「そうでしたか」
店長は、あえて慰めの言葉を選ばない。
『判断は間違ってなかったって、頭では分かってるんです。
でも、帰りの車内で、手が震えて』
「ええ」
店長は包丁を置き、男の目線と同じ高さで話す。
「救急隊員は、“結果”より先に“行動”を積み重ねる仕事です。
その震えは、怠けじゃない。感覚がまだ生きている証です」
サポーターの男が、次の皿を運ぶ準備をする。
「二品目です。
“戻れなかった時間を、静かにほどく”料理です」
《焼き根菜の温かい胡麻和え》
人参、蓮根、牛蒡。
火を通しすぎず、噛むたびに土の甘みが広がる。
胡麻はすり切らず、粒を少し残してある。
『……歯応えが、いい』
「噛む、という行為は“今ここ”に戻す力があります」
男は、無意識に呼吸を整えながら食べる。
『現場では、噛むことも忘れてます』
「でしょうね」
『助ける側が、壊れてはいけないんですよね』
「壊れない人はいません。
“壊れたまま動き続けない”ことが大切なんです」
サポーターの男が、静かに水を替える。
『……ここに来てよかった』
店長は、小さく微笑む。
「この店は、次はありません。
だから、今日の感覚を持ち帰ってください」
器の中の根菜は、いつの間にかなくなっていた。
男の背中から、夜の張りつめた線が一本、消えている。
店長は、甘味の準備に取りかかる。
「次で最後です。
“終わりを、責めずに受け取る”ための一品を出します」
店長は火を止め、しばらく鍋の余熱だけを残した。
「サポーターの男、お願いします」
「「はい」」
静かに置かれた小さな器。
湯気はほとんど立たず、甘さも香りも控えめだ。
《温めた林檎と白味噌の甘味》
林檎は煮崩さず、白味噌はごく薄く溶かしてある。
甘いのに、懐かしく、どこか食事の終わりを告げる味。
『……甘いのに、落ち着きます』
「ええ。
“終わった”と身体に伝える味です」
男はゆっくり匙を動かす。
『助けられなかった人の顔って、
どうしても残るんですよ』
「残ります」
『忘れた方が、楽なんでしょうか』
店長は首を横に振る。
「忘れる必要はありません。
ただ、“連れて歩かなくていい距離”に置くんです」
サポーターの男が、そっと照明を落とす。
『距離、ですか』
「ええ。
思い出は、抱え続けるものじゃない。
“棚に置く”ものです」
男は最後の一口を口に含み、目を閉じる。
『……これなら、明日も現場に戻れそうです』
「それで十分です」
店長は器を下げ、カウンターを拭く。
「あなたは、今日も誰かの“今”に立ち会った。
それは、失敗ではありません」
男は立ち上がり、深く一礼する。
『ありがとうございました』
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
店内には、もう客はいない。
サポーターの男が、義手でゆっくりと椅子を整える。
「「今日も、重い夜でしたね」」
「ええ」
店長は灯りを落とす。
「でも、ちゃんと戻っていった。
それで、この店の役目は終わりです」
火は消え、
一度きりの店も、静かに幕を下ろした。




