言葉を割らない夜
プロンプト
登場人物:作詞家 50代 男性
店の扉が、静かに音を立てて閉まる。
「いらっしゃいませ。店長です」
カウンターの奥で、義手の男が無言でうなずき、布巾を整える。
作詞家の男は、コートを脱ぎ、少し肩を落として腰を下ろした。
『……言葉を使う仕事を、もう三十年ほどやってます』
店長は、差し出された登場人物の個人認証カードに目を落とす。
年齢、職業、そして長く積み重ねてきた時間の重み。
「承りました。最初の一品は、言葉を“探さなくていい”ところから始めましょう」
サポーターの男が、鍋に火を入れる。湯気は控えめで、音も立てない。
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《白葱と昆布の澄まし椀》
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器が置かれる。香りは淡く、主張しない。
「店長、この一品は“書かない時間”のための椀です」
『……書かない時間、ですか』
「ええ。作詞家さんは、常に言葉を探してしまう。
でも今日は、言葉が向こうから来るのを、待つ側で」
サポーターの男が、低く一言だけ添える。
「噛まなくていいです。飲むだけで」
男は、静かに椀を持ち上げる。
ひと口含み、目を閉じた。
『……何も浮かばないのに、落ち着きます』
「それで十分です。最初の一品は、空白を取り戻す料理ですから」
店内には、湯気と静けさだけが残る。
次の一品は、まだ語られない。
作詞家の男は、空になった椀をそっと置いたまま、しばらく動かなかった。
『……昔は、言葉が勝手に溢れてきたんです』
『今は、ひとつ書くたびに、正しいかどうかを考えてしまう』
店長は、火を落とした鍋から目を離さず、うなずく。
「五十代になると、“上手く書ける言葉”と“本当の言葉”が、ずれ始めることがあります」
サポーターの男が、包丁を置き、音を立てないように身を引く。
「次は、そのずれをそのまま残す料理にしましょう」
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《焦がし醤油の焼きおにぎり》
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香ばしさが、先ほどの澄まし椀とは正反対に広がる。
形は少し不揃いで、焦げ目も均一ではない。
『……きれいじゃないですね』
「ええ。整えていません」
店長は、あえて言葉を選ばずに続ける。
「歌詞も同じです。
削りすぎると、焦げ目まで消えてしまう」
サポーターの男が、小さく補足する。
「崩れてるところが、いちばん味があります」
男は、箸で割り、湯気を逃がす。
中からは、白い米と、少しだけ残った芯。
『若い頃は、評価される言葉を書こうとしてました』
『今は……何を書きたいのか、わからなくなる』
「わからなくなった時期にしか、書けない歌もあります」
店長は、男の皿を下げず、そのまま置いた。
「今日は、完成させなくていい。
途中のままで、噛んでください」
男は黙って、二口目を口に運ぶ。
噛むたび、焦げと甘みが遅れてやってくる。
『……まだ、続けてもいいんですかね』
店長は、初めて火元から目を上げ、まっすぐに答えた。
「続けるかどうかを、決めなくていい時間を、今は食べているんです」
店の中に、言葉にならない余韻が沈む。
次に出るのは、終わりを急がない一品。
焼きおにぎりの皿は、すでに冷めている。
それでも、作詞家の男は、最後の一粒をゆっくり噛みしめていた。
『……歌って、不思議ですね』
『完成した瞬間より、書いてる途中のほうが、覚えてる』
店長は、その言葉を拾わず、代わりに湯を張った小鍋を火にかける。
「では三品目は、“途中のまま置いていい”料理です」
サポーターの男が、器を選ぶ。白でも黒でもない、くすんだ釉薬。
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《割らない温玉と白出汁》
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殻付きのまま、そっと器に置かれた卵。
白出汁は張られているが、まだ混ざっていない。
『……割らないんですか』
「割らなくていいです。
割るかどうかも、今は決めなくていい」
店長は、静かに言葉を続ける。
「歌詞も同じで、完成させる前に割ってしまうと、
中身が自分のものかどうか、わからなくなる」
サポーターの男が、短く付け足す。
「持ち帰っても、いいです」
男は、卵に触れず、出汁だけを一口すすった。
『……誰にも聞かせてないノートが、何冊もあります』
『たぶん、もう世に出ない』
「それで、かまいません」
店長は即答する。
「出なかった言葉も、
あなたの中でちゃんと歌っています」
男は、しばらく卵を見つめ、最後まで殻を割らなかった。
だが、口元はわずかに緩んでいる。
サポーターの男が、火を止める音を立てる。
「最後は、甘いものです」
店長は、器を温めながら、低く告げた。
「終わりを、決めない甘味をお出しします」
店の灯りが、少しだけ柔らかくなった。
店内の空気が、さらに静まる。
作詞家の男は、背もたれに体を預け、天井を見上げていた。
『……もう、新しい言葉なんて出ないと思ってました』
『でも今は、出なくてもいい気がしてます』
店長は、小さな鍋をゆっくり回しながら答える。
「出ない時期は、言葉が眠っているだけです。
起こさなくていい夜も、あります」
サポーターの男が、最後の器を差し出す。
白く、軽く、持つと少し温かい。
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《蜂蜜と柚子皮の葛寄せ》
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透明に近い葛が、灯りを受けて揺れている。
甘さは控えめで、柚子の香りが遅れて届く。
『……終わりって感じがしませんね』
「ええ。終わらせていません」
店長は、はっきりと言った。
「この店は一度きりですが、
あなたの中の歌は、今日で閉めなくていい」
サポーターの男が、静かに補足する。
「冷めても、味は変わりません」
男は、匙で一口すくい、しばらく舌の上に置いた。
『……書けなくなったんじゃなくて』
『書かなくても、よくなっただけかもしれませんね』
「それに気づけたなら、今日は十分です」
店長は、深く一礼する。
「また言葉が欲しくなったら、
書く前に、何も書かない時間を思い出してください」
作詞家の男は、立ち上がり、コートを羽織る。
扉の前で一度だけ、振り返った。
『ごちそうさまでした』
「ありがとうございました」
扉が閉まる。
店内には、もう次の客を待つ準備はない。
サポーターの男が、最後にぽつりと言う。
「いい余白でしたね」
「ええ」
店長は灯りを落とし、誰にも書かれない歌の余韻を、静かに片づけた。




