淹れない夜に残る香り
プロンプト
登場人物:喫茶店 女性 30代 店長
店の扉が静かに開き、珈琲の香りをまとった女性が入ってくる。
カウンターの奥で、店長は小さくうなずいた。
「いらっしゃいませ。個人認証、確認しました」
サポーターの男は、義手でそっとカードを受け取り、何も言わずに頷く。
「喫茶店の店長。30代。毎日、豆と人の表情に向き合ってきた方ですね」
女性は少し驚いたように、そして照れたように微笑む。
『……はい。自分が、そういう仕事をしています』
店長は火を入れ、鍋に水を張る。
「では最初の一品です。今日は“迎える側”の方に、迎えられる時間を用意します」
サポーターの男が、静かに器を温めて並べる。
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《湯気にほどけるミルクと深煎り豆の白いスープ》
深煎りの珈琲豆を細かく砕き、香りだけを低温のミルクに移した一皿。
苦味は出さず、輪郭だけを残して、白く仕上げている。
「いつもは、あなたが“一杯目”を淹れる側でしょう」
店長は器を差し出す。
「今日は、誰かに最初を任せてください」
女性は両手で器を包み、湯気に顔を近づける。
『……珈琲なのに、やさしいですね』
「ええ。仕事の顔を脱ぐための珈琲です」
一口飲んだ瞬間、女性の肩が、ほんの少し下がった。
店長はそれを見て、何も言わない。
この店は一度きり。
だからこそ、最初の一品は、役割を外すための一皿だった。
女性は、器を置くまでに少し時間をかけた。
飲み干すというより、湯気が消えるのを待つように。
『……お客さんの前では、こうやってゆっくり飲めないんです』
「でしょうね」
店長は答えながら、次の鍋に火を入れる。
サポーターの男は無言で、木のトレーを拭いている。
『常連さんも増えて、ありがたいんです。でも……』
女性は言葉を切り、指先で器の縁をなぞった。
『“今日も同じ味でいてほしい”って思われるほど、逃げ場がなくなって』
店長は包丁を置き、女性を見る。
「味を守る仕事は、静かに消耗します」
サポーターの男が、義手で豆を量り、音を立てずに器に入れる。
「二品目は、“変えなくていい場所”を出します」
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《焼き色をつけない林檎と豆の静かな温皿》
薄く切った林檎を、火を入れすぎず、豆と一緒に蒸し上げた一皿。
甘くも酸っぱくもなりきらない、途中の味。
「毎日、同じである必要はありません」
店長は、皿をそっと置く。
「変わらないのは、店じゃなくて、続けてきたあなたです」
女性は一口食べ、目を伏せた。
『……“味がブレてないか”ばかり見てました』
「それは、店長の仕事です。でも、人の仕事ではない」
林檎の柔らかさに、豆の食感が残る。
完全に混ざらないことが、逆に心を落ち着かせる。
女性の呼吸が、先ほどより深くなる。
この店では、まだ続きがある。
けれど、ここから先は、少しだけ“手放す時間”だ。
皿が空になる頃、店内には音がほとんど残っていなかった。
換気扇の低い唸りと、鍋の中の小さな気泡だけ。
女性は背もたれに身を預け、深く息を吐く。
『……お店に立ってない自分って、何者なんだろうって、時々思うんです』
店長は砂糖を量らず、手の感覚だけで鍋に落とす。
サポーターの男は、義手でスプーンを温め、黙って差し出した。
「三品目は、“役割を外しても残るもの”です」
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《珈琲殻と蜂蜜の影を溶かす小さな甘味》
一度使われた珈琲殻を、蜂蜜と低温で煮詰め、
ほろ苦さだけを残した、小さな一口。
「店長をしていない時間にも、あなたは残ります」
店長は、甘味を置いてから、少し間を空けて続ける。
「豆を選ぶ手、湯気を読む目、誰かの一日を想像する癖。
それは、肩書きがなくても消えません」
女性は甘味を口に運び、目を閉じた。
苦味が先に来て、遅れて甘さが広がる。
『……これ、失敗した豆みたい』
「ええ。だから、使いました」
サポーターの男が、小さく頷く。
「役に立たなかった時間も、ちゃんと甘くできます」
女性の口元から、仕事用ではない笑みがこぼれた。
しばらくして、彼女は席を立つ。
『……明日も、お店は開けます。でも、今日の夜は……少し、何もしません』
「それでいい」
店長は、最後に一言だけ添える。
「この店は一度きりです。ですが、戻らなくていい感覚は、持ち帰ってください」
扉が閉まる音は、静かだった。
珈琲の香りだけが、しばらく残っていた。




