効果の無い夜
プロンプト
登場人物:薬剤師 男性 40代
扉が、静かに閉まる。
サポーターの男が、何も言わずに椅子を引いた。
店内には、薬草を乾かしたような、ほのかな香りがある。
店長は、カウンター越しに一枚のカードを受け取る。
そこには、職業と年齢、そして積み重ねてきた時間だけが、簡潔に記されていた。
「……薬剤師、40代。毎日、人の体と数字と責任に向き合っている手だな」
火を入れる音は控えめに、鍋は静かに温める。
最初の一品は、“役割”を外すための皿だ。
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《秤を置く白い根菜の澄まし煮》
澄んだ出汁に、柔らかく煮た大根と蕪。
薬味は最小限、噛むたびに水分がほどけるように仕上げてある。
「店長はな、最初の一品では“正しさ”を使わない。
今日は、効き目も用量も、考えなくていい」
器を置くと、湯気が静かに立ち上った。
『……匂いだけで、肩が下がりますね』
「それでいい。
この店では、“間違えない人”じゃなくて、“休んでいい人”でいればいい」
サポーターの男が、水を置く。
義手の金属が、かすかに光った。
男はスプーンを取り、ゆっくりと口に運ぶ。
噛む、というより、ほどける感覚。
『味が……主張しない。なのに、ちゃんと残る』
「薬と同じだ。
必要な分だけ、体に残ればいい」
店内に、時計の音はない。
ただ、湯気が消えていく時間だけが、静かに流れていた。
二品目の準備をしながら、店長は男の背中を見ている。
少しだけ、呼吸が深くなっているのを確認しながら。
鍋の火を、さらに一段落とす。
強くする理由は、もう無い。
サポーターの男が、無言で次の皿を運ぶ準備をする。
義手の動きは相変わらず正確だが、どこか余白が生まれていた。
店長は、男の横顔を見ずに話す。
「次はな、“判断し続ける頭”を休ませる皿だ」
⸻
《処方箋を閉じる麦と鶏の温皿》
柔らかく炊いた押し麦。
低温で火を入れた鶏むね肉。
塩は控えめ、香りは麦そのものを残す。
「薬剤師ってのは、
“迷ってはいけない時間”が長い仕事だ」
皿を置くと、湯気がふわりと広がる。
『ええ……間違えないように、
いつも頭の中で、何度も確認しています』
「今日は、その確認を止めていい」
店長は、スプーンを少し手前に置いた。
「噛む回数も、順番も、決めなくていい。
効かせようとしなくていい」
男は、麦を一口すくう。
次に鶏を、そしてまた麦を。
『……味が、一定ですね』
「そうだ。
上下も、強弱も、無い」
サポーターの男が、小さくうなずいた。
『毎日、患者さんに説明するとき、
“同じ説明”をしているつもりでも、
実は、毎回気を張っていて……』
「それは、真面目な証拠だ」
店長は、鍋の蓋を閉めた。
「でもな、真面目な人ほど、
自分にだけ“休薬期間”を与えない」
男の手が止まる。
スプーンを置いたまま、湯気を見ている。
『……休薬、ですか』
「そう。
ずっと飲み続ければ、
効かなくなるもんもある」
店内は、しんと静まり返る。
押し麦の器は、ほとんど空になっていた。
店長は、最後の火を入れる準備を始める。
甘味ではあるが、慰めではない。
「最後は、“役に立たなくていい時間”を出す」
サポーターの男が、そっと灯りを落とした。
三品目の皿は、もうすぐ完成する。
火を止める。
完全に、だ。
サポーターの男が、静かに器を温め直す。
店内の灯りは、少しだけ柔らかい色に変わった。
店長は、男の前に小さな皿を置く。
量は多くない。説明も要らない。
⸻
《効能を持たない蜂蜜とミルクの静かな甘味》
温めたミルクに、ひとさじの蜂蜜。
香り付けも、飾りも無い。
「これはな、
何にも効かない」
男が、少し驚いたように顔を上げる。
『……何にも、ですか』
「血糖も、睡眠も、集中力も。
改善もしないし、予防にもならない」
サポーターの男が、スプーンを添える。
「ただ、
甘いだけだ」
男は、しばらく眺めてから、口に運ぶ。
ゆっくりと、喉を通る。
『……久しぶりに、
“理由のない味”を食べた気がします』
「だろうな」
店長は、カウンターに肘をつかない。
距離は、保ったままだ。
「お前さんは、
“意味が無いもの”を、
普段、口にしない」
男は、否定しない。
『患者さんの前では、
無駄なものは、勧められませんから』
「今日は、患者はいない」
ミルクは、もう半分以上なくなっている。
『……役に立たなくても、
食べていいんですね』
「ここではな」
店長は、短く息を吐く。
「この店は、一度きりだ。
明日から、また正しい世界に戻る」
男のスプーンが、止まる。
そして、最後の一口を、ゆっくりすくった。
『……分かりました』
皿は、空になった。
サポーターの男が、会計の皿を置く。
金額は、書かれていない。
店長は、最後に一言だけ残す。
「効かない時間を、
覚えておけ」
男は、立ち上がる。
背筋は、来た時よりも、少しだけ緩んでいた。
扉が閉まる。
もう、二度と開かない。




