評価を休ませる葡萄の夜
プロンプト
登場人物:ワインソムリエ 男性 40代
静かな店に、扉の鈴が一度だけ鳴った。
カウンターには、長年グラスを磨いてきた指を持つ男が腰を下ろす。
店長は、差し出された登場人物の個人認証カードに目を通し、小さく頷いた。
「店長、ようこそ。一度きりの店へ」
サポーターの男は、義手で静かに皿を温め、店長の横に控える。
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《ブドウ畑の静寂をほどく前菜》
深皿に広がるのは、白ブドウを軽くマリネした薄切りと、熟成チーズを削った一皿。
オリーブオイルは最小限、香りだけを残すために指で落とす。
「店長、この一品は“評価しない舌”のための料理です」
ナイフもフォークも置かれ、手で一口分だけ取れるように仕上げられている。
「ソムリエという仕事は、常に“正解”を探されます。
でも今日は、良いも悪いも、点数もありません」
サポーターの男が、無言でグラスに水を注ぐ。
音を立てないよう、縁に沿わせて。
男性は一口、ゆっくりと口に運ぶ。
『……香りが、先に来るな。味は後から、静かに』
「ええ。畑に立って、誰もいない朝に深呼吸する感じです」
男性の肩が、ほんの少し下がる。
いつも張り付いていた“選ぶ側の緊張”が、ほどけ始めていた。
店長は次の火加減を確かめながら、心の中で呟く。
――この人には、まだ“語らせない”。
今日は、舌を休ませる夜だ。
カウンターの灯りは、少しだけ柔らかくなっていた。
店内に、弱い火の音だけが残る。
男性はグラスに口をつけず、皿の余韻を確かめるように視線を落としていた。
店長は、次の皿をカウンターに置く前に一呼吸おく。
「店長、二品目をお出しします」
サポーターの男が、義手で静かに蓋を外す。
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《熟成庫を出た夜の温皿》
低温で火を入れた鶏肉に、赤ワインではなく“ワインになる前の葡萄の煮汁”を添えた一皿。
酸もタンニンも立たせず、ただ丸みだけを残している。
「ワインを合わせない料理、ですか」
『……珍しいな』
「はい。今日は“合わせない”を味わっていただきます」
店長は、男性の目を見ず、鍋の方を向いたまま続ける。
「何年も続けていると、舌が先に答えを出してしまう。
飲む前に、説明が立ち上がる」
男性は黙って一口運ぶ。
噛むたびに、旨味が遅れて広がる。
『……評価できない味だな』
その言葉に、店長は小さく笑う。
「それでいいんです。
これは“仕事の舌”じゃなく、“夜の舌”のための料理です」
サポーターの男が、そっと照明を落とす。
影が深くなり、料理の輪郭だけが浮かぶ。
男性は、箸を置いたまましばらく動かない。
『……最近、ワインを飲んでいても、畑が見えなくなってた』
店長は、ようやく男性の方を向く。
「数字や言葉が先に来ると、景色は後回しになりますから」
『若い頃はな、土の匂いだけで一本選べた気がする』
「“気がする”で十分です」
男性の喉が、静かに鳴る。
肩から、長年背負ってきた“選ばねばならない責任”が、少しずつ落ちていく。
鍋の火を止め、店長は次の準備に入る。
「次は、甘味です」
その声は、評価表のない夜に、やけに優しく響いていた。
店内には、もう調理音はない。
火は落とされ、残るのは甘い香りだけだった。
サポーターの男が、義手で小さな器を二つ、そっと温める。
店長は最後の仕上げをしながら、静かに告げる。
「店長、これが最後の一品です」
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《名も付けない葡萄の余韻》
ワインにしなかった葡萄を、砂糖も酒も使わず、時間だけで甘味を引き出したデザート。
形は不揃い、香りも控えめ。
ただ、口に入れると、遠い畑の夕暮れが浮かぶ。
「説明は、ありません」
男性は、少し驚いた顔で器を見る。
『……名前も?』
「はい。
名前を付けた瞬間、評価が始まってしまうので」
一口、口に運ぶ。
噛むと、じんわりと甘さがにじむ。
男性は目を閉じた。
『……若い頃、収穫の後に畑で食べた葡萄に近い』
店長は、何も言わずに頷く。
『美味しい、でも……売れないな』
「ええ。売れません」
その言葉に、男性は小さく笑った。
『仕事を忘れた味だ』
サポーターの男が、そっと水を差し出す。
男性はそれを飲み干し、深く息を吐いた。
『今日は、一本も選ばなくて済んだ』
「それが、この店の役目です」
カウンターの灯りが、さらに落ちる。
一度きりの店の、終わりの合図。
男性は立ち上がり、ジャケットを整える。
『また来たい……けど、来られないんだよな』
「ええ。一度きりです」
男性は、扉の前で一度だけ振り返る。
『……畑を、思い出したよ』
「それなら、十分です」
扉が閉まり、鈴が一度鳴った。
店内には、もう誰もいない。
店長はカウンターを拭き、サポーターの男と目を合わせる。
「今日も、無事に送り出せましたね」
サポーターの男は、黙って頷いた。
――評価のない夜は、静かに終わる。
それでいい。




