撫でる手を休ませる夜
プロンプト
登場人物:ペットトリマー 40代 女性
店の扉が静かに開く。
『今日は、仕事帰りです。少し…匂いが残っているかもしれませんね』
カウンターに置かれた登場人物の個人認証カードに、
ペットトリマー/40代/女性の文字が灯る。
「大丈夫ですよ。ここでは、その匂いも仕事の一部ですから」
と、店長は穏やかに微笑む。
サポーターの男が、義手でカードを受け取り、静かにうなずいた。
「毛並みを整える仕事は、相手が言葉を持たない分、神経を使います」
「今日はまず、“自分の感覚を戻す一皿”からいきましょう」
サポーターの男が、下ごしらえを手伝いながら言う。
「手は疲れてます。指先が、ずっと緊張してる」
店長は鍋に火を入れ、香りを立たせた。
「ええ。だから、噛まなくていい温度にします」
しばらくして、静かに一皿が差し出される。
《毛並みを休ませる白身魚とハーブの温スープ》
『……あ、匂いが優しい』
スプーンを口に運んだ瞬間、女性の肩が、ほんの少し下がる。
「整える側ほど、自分の乱れには気づきにくい」
「この一皿は、“今日はもう誰も触らなくていい”という合図です」
サポーターの男が、小さく付け加える。
「ここでは、噛まれる心配もない」
女性は、ふっと笑った。
『そうですね……今日は、ただ飲み込みます』
スープの湯気が、仕事の緊張をゆっくりほどいていった。
女性がスープを飲み終える頃、店内の空気が少しだけ柔らいだ。
『……不思議ですね。
いつもは、家に帰っても手の感覚が残るんです。
毛の重さとか、嫌がる体温とか』
「命を預かる仕事ですからね」
店長はまな板に静かに食材を置く。
サポーターの男が、義手で包丁を支えながら言う。
「逃げないように、暴れないように、ずっと集中してる」
女性はうなずいた。
『噛まれないように、怖がらせないように。
優しくしなきゃ、って思うほど、力が入るんです』
店長は火を弱め、フライパンに油を落とす。
「だから次は、“優しくしなくていい一皿”です」
「雑に扱っても、ちゃんと受け止めてくれる料理」
音を立てずに焼き上げられた皿が、カウンターに置かれる。
《噛みしめることで力を抜く 根菜と粗挽き肉の温皿》
『……しっかりした料理ですね』
「ええ。今日は、丁寧じゃなくていい」
「噛んで、飲み込んで、それだけでいいんです」
女性はフォークを手に取り、少し迷ってから口に運ぶ。
『……あ』
思ったより歯ごたえがあり、自然と噛む回数が増える。
噛むたびに、手ではなく顎に力が移っていく。
サポーターの男が、小さく言った。
「噛んでる間、手は休める」
『……本当ですね』
女性の声が、さっきより低く、落ち着いている。
「整える仕事の人ほど、壊す感触が必要な時もある」
店長はそう言って、女性の皿が空いていくのを見守った。
『今日は、誰にも優しくしなくていいんですね』
「ええ。今日はもう、十分やりました」
料理を食べ終えた女性は、深く息を吐いた。
それは、仕事終わりではなく、自分に戻るための呼吸だった。
店内に、次の一皿の準備を知らせる、静かな音が響いた。
店内の照明が、ほんの少しだけ落とされる。
女性は背もたれに身を預け、指先をそっと開いたり閉じたりしていた。
もう、何かを掴む形ではない。
「次は、手を使わない時間を出します」
店長はそう言って、鍋の蓋を閉める。
サポーターの男が、湯気の立つ小鍋を運びながら言う。
「これは、目と鼻だけで受け取る」
『……仕事では、ずっと相手を見てますからね』
女性は苦笑した。
『今日は、見なくていいなら助かります』
店長は、音を立てないように器を置く。
《触れずに感じる 柑橘と白茶の静かな温飲》
「持たなくていい。両手は、そのままで」
女性は一瞬戸惑いながらも、器に顔を近づける。
柑橘の皮のほろ苦さと、白茶の柔らかな香りが、先に届いた。
『……あ、深い』
「毛を切る前に、必ず呼吸を合わせるでしょう」
「これは、その“合わせる呼吸”を、自分に向ける一杯です」
サポーターの男が、小さくうなずく。
「相手が動かないから、焦らなくていい」
女性は目を閉じたまま、ゆっくりと一口含んだ。
『……舌で探さなくても、味が来ます』
「ええ。探さなくていい」
「仕事の感覚を、ここで手放しましょう」
温度が喉を通り、胸の奥に落ちていく。
その間、女性の手は膝の上で、ただ休んでいた。
『……今日は、撫でなくていいんですね』
「はい」
「今日は、撫でられる側です」
器を置いたあと、女性はしばらく動かなかった。
整える人の時間が、何も整えなくていい時間へと変わっていく。
店の奥で、最後の一皿の準備が、静かに始まった。
店の奥から、甘くも静かな香りが流れてくる。
焼く音も、切る音もない。
ただ、待つ時間だけが、ゆっくり進んでいた。
女性はカウンターに肘をつき、もう無意識に背筋を伸ばすこともない。
『……昔、犬を洗ったあとって、
自分の匂いが分からなくなるんです』
「ええ。仕事の匂いに、全部持っていかれる」
店長は小さな皿を両手で運ぶ。
サポーターの男が、最後にスプーンを一本、そっと添えた。
「これは、整えなくていい甘さ」
カウンターに置かれた、最後の一皿。
《撫で返される夜 ミルクと蜂蜜のやわらかな甘味》
「噛まなくていい。考えなくていい」
「ただ、溶けるまで待てばいいです」
女性はスプーンを入れ、ゆっくり口に運ぶ。
『……あぁ』
その声は、仕事中には決して出さない種類のものだった。
甘さは主張せず、ミルクの温度が、身体の輪郭を思い出させる。
自分が、誰かを支える前に、ここにいる一人の人間であること。
『……今日は、いい子にさせなくていいんですね』
「はい」
「今日は、もう十分頑張った」
サポーターの男が、小さく付け加える。
「帰ったら、手を洗う前に、深呼吸」
女性はうなずき、最後の一口を味わった。
しばらくして、椅子から立ち上がる。
動きに、急ぎはない。
『また、明日も触ります』
『でも今日は……自分に触れました』
「それでいい」
店長は、扉を開けながら言った。
一度きりの店。
二度と来ることはない。
夜の外気に触れた女性の背中は、
もう、仕事の形をしていなかった。




