指摘事項なしの夜
プロンプト
登場人物:内部監査 50代 男性
静かなカウンターに、50代の男性が腰を下ろす。
スーツの癖は抜けきらず、視線だけが先に店内を点検するように動いていた。
サポーターの男が、無言で一枚のカードを受け取り、義手で端末に通す。
小さな電子音のあと、店長はゆっくり頷いた。
「内部監査、50代。数字と規程を守る立場。
誰かのミスを見つける仕事だが、自分の疲れは報告書に書けない…そんなところですね」
男は小さく息を吐く。
『仕事柄、こういう店は落ち着かなくてね。
つい、粗がないか見てしまう』
店長は笑わず、火に鍋をかけた。
「最初の一品です。
今日は“確認しなくていい状態”を、胃から作ります」
サポーターの男が、器を丁寧に置く。
《規程外を許す白湯と根菜の澄まし》
湯気は控えめで、香りだけが先に届く。
塩分はぎりぎりまで削られ、根菜の甘さだけが残っている。
『……薄いな』
男はそう言いながら、もう一口すする。
眉間の皺が、ほんのわずかに緩んだ。
「監査では“逸脱”でも、体には必要な余白があります」
「この一杯には、是正報告は要りません」
男は器を両手で持ち直し、黙って頷いた。
チェックリストは、今だけカウンターの外に置かれている。
男は器を空にし、しばらくその底を見つめていた。
何かを書き留める癖が、指先に残っているが、今日はペンを探さない。
『……胃が静かになると、頭も少し黙るもんだな』
サポーターの男が、次の皿を運ぶ準備をする。
義手が金属音を立てないよう、動きはいつもよりゆっくりだった。
店長はフライパンに油を引かず、弱火だけを点ける。
「次は、“判断を保留にする一皿”です」
「正しいか間違いかを、今は決めなくていい」
ほどなく、温度だけが伝わる料理が置かれた。
《結論を急がない鶏むねと青菜の温和え》
味付けは最小限。
噛むほどに水分がにじみ、青菜の苦味も主張しない。
男は一口、二口と、一定の速度で食べ進める。
途中で箸が止まり、ふっと笑った。
『普段なら、ここで理由を考えるんだ。
なぜこうなったか、改善点は何かってな』
「今日は、“なぜ”を出さなくていい」
「監査をしない時間も、業務外ですが必要です」
男は箸を置き、背もたれに身を預けた。
肩が少し落ち、呼吸が深くなる。
『部下の報告書より、
自分の状態の方が、よっぽど未確認事項だったな』
サポーターの男は、静かに空いた皿を下げる。
その動きには、急かす気配が一切なかった。
店内に残るのは、火を落とした後の温度と、
もう“是正”しなくていい沈黙だけだった。
男はしばらく黙ったまま、カウンターの木目を眺めていた。
そこに規則性はあるが、評価する必要はないと気づいたようだった。
サポーターの男が、小さな皿を置く前に一度だけ店長を見る。
店長は、首を横に振らず、ただ静かに頷く。
「最後の一品です」
「“問題点を見つけない終わり”にしましょう」
灯りを少し落とし、冷たいものではなく、ぬるさを選ぶ。
《指摘事項のない蜜柑と白餡の温甘味》
蜜柑の酸味は角を取られ、白餡は甘さを抑えている。
評価基準を作る前に、舌が先に受け取る味だった。
男は一口食べ、目を閉じる。
次の瞬間、深く息を吐いた。
『……合否をつけなくていいデザートか』
「はい」
「今日は“問題ありません”ではなく、“問題にしない”で終わります」
男は小さく笑い、皿をきれいに空にした。
スーツの背中から、張り付いていた緊張が抜けていく。
『明日、また厳しく見る仕事に戻る』
『でも今夜は、自分を監査しなくて済んだ』
サポーターの男が静かに会計を済ませる。
金額は見せない。説明もしない。
店長は最後に、短く言った。
「この店は一度きりです」
「また来る必要はありません」
男は立ち上がり、軽く一礼する。
その動作に、検証や確認は含まれていなかった。
扉が閉まり、店内には誰も残らない。
是正も報告もないまま、夜は静かに完了した。




