祖父の台所を胸にしまう夜 -保険営業の女性と一度きりの店-
プロンプト
登場人物:保険屋 営業 40代 女性
店の扉が静かに開く。
『こんにちは。今日は少しだけ、休ませてもらえますか。』
店長は頷き、カウンターの奥に目を向ける。
サポーターの男が、義手でカードを受け取り、そっと差し出した。
「40代、保険営業。毎日、人の不安と数字の間に立ち続けてきた方ですね。」
「最初の一品、用意します。」
⸻
《安心を売らない、白野菜と豆のやわらか煮》
湯気は控えめで、香りも強くない。
大きさの揃わない白野菜と、形を崩した豆が、深めの器に静かに収まっている。
「これは、“守る側”が、何も背負わなくていい一皿です。」
「保障も説明もいりません。ただ、温度だけを感じてください。」
サポーターの男が、ゆっくりと器を置く。
女性は一口、口に運ぶ。
『……味が、主張しないですね。』
「ええ。今日は、説得しなくていい日ですから。」
スプーンを動かすたび、女性の肩から、わずかな力が抜けていく。
売る言葉も、励ます声も、ここでは必要ない。
店の中には、噛む音と、煮汁が冷めていく時間だけが流れていた。
女性は、白野菜を半分ほど食べ進めたところで、スプーンを止めた。
器の縁に、そっと指を添える。
『……店長さん。
これ、変な話かもしれませんけど。』
「ええ。ここでは、変じゃない話ばかりです。」
女性は小く息を吸い、天井を一度だけ見上げた。
『1年くらい前に、祖父が亡くなったんです。』
カウンターの奥で、サポーターの男が動きを止める。
義手の指先が、静かに布巾を握ったままになる。
「……そうでしたか。」
『仕事柄、人の“もしも”を毎日話してるのに。
その時は、何もできなかったなって。』
『守る仕事をしてるはずなのに、
一番近い人のことは、守れなかった気がして。』
女性は笑おうとして、やめた。
『葬儀が終わって、また普通に営業に戻って。
気づいたら、“大丈夫です”って言葉だけが、上手くなってました。』
店長は、器の中身が減っていく様子を見ながら、ゆっくりと答える。
「守れなかった、じゃないですよ。」
「その時間まで、一緒に生きた。
それ以上の保障は、どこにもありません。」
女性の目が、わずかに揺れる。
『……でも、仕事をしてると、
どうしても比べてしまって。
もし、あの時もっと——って。』
「“もしも”は、未来のための言葉です。」
「過去に使うと、ずっと自分を責め続ける契約になります。」
サポーターの男が、静かに湯を足し、湯気がふわりと立ちのぼる。
女性は、もう一口、煮物を口に運ぶ。
『……この料理、不思議ですね。
食べてると、祖父の家の台所を思い出します。』
「思い出せる場所が、ちゃんと残っている証拠です。」
白野菜のやわらかさが、舌の上でほどける頃、
女性の声は、最初よりも低く、静かになっていた。
ここではまだ、答えは出さない。
ただ、失った時間を、そっと器の中に置いておくだけだった。
店長は、女性の前の器が空きかけているのを確かめ、静かに声をかける。
「二品目、いきますね。」
サポーターの男が、奥から木目の残る小さな土鍋を運んでくる。
蓋を開けた瞬間、湯気とともに、懐かしい香りがふわりと広がった。
⸻
《祖父の台所を思い出す、干し大根と卵のとろ火煮》
干し大根は、角を落とさず、少し不揃いなまま。
卵は固めすぎず、煮汁にゆっくり溶け込んでいる。
『……あ。』
女性の声が、思わず漏れる。
『この匂い。
祖父の家の朝ですね。』
「台所って、不思議な場所でして。」
「言葉より先に、時間を呼び戻します。」
女性はスプーンを持つ手を止め、しばらく鍋を見つめる。
『祖父、朝が早くて。
私が起きると、もう台所に立ってて。』
『味付けは、いつも薄いのに、
なぜか安心する味でした。』
サポーターの男が、鍋敷きを少しだけずらし、音を立てないように整える。
「今日は、その“薄さ”をそのまま出しました。」
「頑張ってない味です。」
女性は、卵の部分をすくい、口に運ぶ。
『……優しい。
売り物にならない味ですね。』
店長は、わずかに笑う。
「はい。
だから、ここにしか出しません。」
女性の目尻が、少しだけ潤む。
『祖父、私が保険の仕事を始めた時、
“人の話を聞く仕事は、体が冷えるぞ”って言ってました。』
『だから、
“ちゃんと温かいものを食べろ”って。』
鍋から立つ湯気が、二人の間をゆっくり埋めていく。
「今日は、その言葉を食べてください。」
女性は、もう一口、ゆっくりと噛みしめる。
『……私、最近。
誰かの不安を温めるばかりで、
自分の冷えに気づいてなかったかもしれません。』
「気づけたなら、十分です。」
鍋の底が見え始める頃、
女性の背中は、来店時よりも少しだけ丸く、柔らかくなっていた。
祖父の台所は、もう戻らない。
けれど、その温度だけは、今もここに残っていた。
店長は、土鍋が空になったのを見届け、静かに手を拭いた。
「最後の品物になります。」
サポーターの男が、白い小皿を一枚だけ運んでくる。
飾りはなく、音も立てない。
⸻
《祖父の背中を見送る、温かい米の甘味》
湯気の立つ柔らかい米に、ほんの少しの塩と、控えめな甘さ。
噛まなくてもほどけるほど、やさしく炊かれている。
『……これは。』
「別れのあとに、残る味です。」
「何かを“守れなかった”と思った人が、
もう一度、前を向くための甘味。」
女性はスプーンを持ち、少しだけ迷ってから口に運ぶ。
『……あぁ。』
声にならない息が、静かに漏れる。
『祖父が亡くなったあと、
誰にも弱音を吐かずに、
ちゃんとしてきたつもりでした。』
『でも、本当は——
“お疲れさま”って、言ってほしかったんですね。』
店長は、器から目を離さずに答える。
「では、今。」
「お疲れさまでした。」
サポーターの男が、小さく一礼する。
女性は、ゆっくりと最後の一口を味わい、目を閉じた。
『……この店、
もう一度来たくなりますね。』
「それは、できません。」
店長の声は、やさしく、しかし迷いがない。
「今日で終わりです。」
女性は、少し驚いたように笑い、頷いた。
『そうですよね。
一度きりだから、
ちゃんと、胸に残るんですね。』
席を立ち、コートを羽織る。
『祖父の台所。
今日、少しだけ、取り戻せました。』
扉が静かに閉まる。
店長は、空になった皿を下げながら、呟く。
「守る仕事をしている人ほど、
自分の温度を忘れがちですから。」
サポーターの男は、義手で灯りを落とす。
もう二度と来ない店。
それでも、この夜の温度だけは、
彼女の中に、静かに残り続ける。




