声を置いていく寄席前の一夜
プロンプト
登場人物:落語家 50代 男性
店の戸が、静かに開いた。
『……今夜は、声を使わない時間が欲しくてね』
年季の入った羽織を整え、男はカウンターに腰を下ろした。
落語家、50代。舞台では言葉で場を支配するが、今は言葉を休ませに来た客だ。
店長は、無言で一枚のカードを受け取る。
──登場人物の個人認証カード。
「確認しました。今夜は、一度きりのご来店ですね」
「サポーターの男」が、義手で静かに湯呑みを差し出す。
「まずは、あなたの“声の履歴”から作りましょう」
⸻
《喉を労わる白湯と削り林檎》
湯気の立つ白湯に、ほんのひと欠片の林檎を浮かべただけの一皿。
香りは淡く、味はほとんどない。
「派手さはありません。
でも、この人は長いあいだ、あなたの声を聞いてきた果物です」
『……ああ。楽屋で、よく差し入れでもらったな』
男は白湯を一口含み、ゆっくり喉を通した。
言葉を発しないまま、林檎を噛む。
噛む音だけが、店内に残る。
「今日は“ウケ”も“間”も、置いていってください。
ここでは、黙っていても落ちはつきます」
「サポーターの男」が、軽くうなずき、客の前の照明を少しだけ落とした。
落語家は、ふっと肩を下ろした。
『……噺家が、黙ってるのも悪くないな』
その声は小さく、誰に聞かせるでもない独り言だった。
店長は、次の仕込みに手を伸ばす。
「では次は、“声を出さずに笑える一皿”をお出しします」
店内の空気が、さらに一段、静まった。
落語家は肘をつき、天井を見上げている。
舞台袖で出番を待つ時とは違う、何も待たない姿勢だった。
「次は、声を出さずに“間”だけを味わっていただきます」
「サポーターの男」が、義手で皿をゆっくり置く。
音を立てないよう、置くその所作自体が一つの演目のようだった。
⸻
《噛むほど遅くなる里芋と昆布の含め煮》
里芋は大きめに切られ、出汁は濃くない。
箸を入れると、すぐには崩れない硬さ。
『……なるほど』
男は一口、噛んでから、止まった。
すぐに飲み込まない。
噛む。
待つ。
また噛む。
舞台で言えば、客が息を整えるための沈黙。
「里芋は、急ぐと味が逃げます。
噺も、同じでしょう」
『客が笑う前に、言っちまうと……壊れる』
「ええ。
だから今日は、先を言わない練習です」
男は、ふっと鼻で笑った。
声は出さない。
箸を止め、もう一度里芋を口に運ぶ。
噛む時間が、少しずつ長くなる。
噛んでいる間、何も考えていない。
「サポーターの男」が、空いた湯呑みに静かに湯を足す。
『……最近な。
客より先に、俺がオチを急いでたかもしれん』
店長は、すぐには答えなかった。
里芋が飲み込まれるのを、待つ。
「今夜は、落とさなくていいんです」
『……楽だな、それ』
男の口元が、わずかに緩んだ。
皿は、いつの間にか空になっていた。
だが、満ちているのは腹ではなく、間だった。
店長は、最後の仕込みに入る。
「では次は、
“ウケなくても残る甘味”をお出しします」
暖簾の向こうで、静かに鍋の音が鳴った。
店の奥で、甘い香りが立ち上った。
砂糖の強さではなく、火を止めた後に残る、余韻の匂い。
落語家は、それに気づいても、振り向かない。
待つことに、もう慣れていた。
「サポーターの男」が、最後の皿を運ぶ。
義手が皿縁に触れる音すら、今夜は一つの拍子だった。
⸻
《落とさない黒蜜葛と温い焙じ茶》
透明な葛に、黒蜜はかけすぎない。
添えられた焙じ茶は、熱くも冷たくもない。
「この甘味は、オチがありません」
『噺家に、ずいぶん思い切ったこと言うね』
「ええ。
でも、落とさなくても残るものもあります」
男はスプーンで葛をすくい、口に運ぶ。
噛まず、急がず、ただ溶かす。
……しばらくして、焙じ茶を一口。
『……ああ』
それだけだった。
感想も、比喩も、いらなかった。
舞台なら、客席が一番静まる瞬間。
誰も笑わないが、誰も帰らない時間。
『俺な、若い頃は「受けりゃ正義」だと思ってた』
店長は、皿を下げずに聞いている。
『今は、受けなくても
「ああ、あの一席、悪くなかったな」
そう思われる噺を残したい』
「それは、十分に“美味い噺”です」
「サポーターの男」が、小さく湯呑みを回収する。
落語家は、最後の一口を食べ終え、背筋を伸ばした。
『声、出してねぇのに……
ずいぶん喋った気がするな』
「言葉を使わずに、間で話されていました」
男は立ち上がり、羽織を整える。
『一度きりか。
惜しい店だな』
「だからこそ、味が残ります」
男は、暖簾の前で一度だけ立ち止まり、振り返らずに言った。
『……今度の高座、
一拍、余計に黙ってみるよ』
戸が閉まり、足音が遠ざかる。
店長は、カウンターを拭きながら、静かに息を吐いた。
「噺は終わりました」
「サポーターの男」が、店の灯りを落とす。
その夜、店はもう二度と開かない。
だが、一つの“間”だけは、どこかの寄席に残った。




