境界に立つ男が、沈黙を通過する夜
プロンプト
登場人物:入国審査官 30代 男性 リーダーとして一部のグループの指導者
店の扉が静かに開き、制服姿の男が一礼して入ってくる。
『ここが……一度きりの店、ですか。
長い一日でしたが、少し休ませてもらいます。』
店内の灯りを落ち着かせ、私はカウンター越しにうなずいた。
「ようこそ。あなたの個人認証カード、確かに受け取りました。
国の境界で人と向き合い、判断を重ねる役目。
今日は“判断する側”から、少し降りてもらいましょう。」
サポーターの男が、義手で静かに湯気の立つ器を運んでくる。
「肩に入った力、最初にほどく一皿です。」
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《境界線を外す白湯と穀の椀》
湯気は強すぎず、ただ呼吸の速さに合わせるように立ち上る。
白湯に、砕いた麦と少量の塩。
噛まずとも、口の中で形がほどけていく。
男性は器を両手で包み、ゆっくりと口に運ぶ。
『……ああ。
普段は“通す・止める”ばかり考えているのに、
これは……考えなくていいですね。』
「ええ。リーダーである前に、一人の人間に戻る味です。
今日は、その順番でいきましょう。」
サポーターの男は何も言わず、静かにうなずく。
店内には、判断も指示もいらない時間が流れ始めていた。
男性が一品目を食べ終える頃、肩の位置がわずかに下がっているのを、私は見逃さなかった。
「次は、“何もしなくていい時間”そのものを出します。」
サポーターの男が、音を立てないように皿を置く。
義手の動きは必要最小限で、まるで空気を置くようだった。
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《指示の要らない温菜》
皿の中央には、柔らかく火を入れた根菜。
形は揃えていない。切り方にも意味を持たせていない。
味付けは薄く、噛む速度も、順番も、決めなくていい。
男性は少し戸惑いながら箸を取る。
『……どこから食べても、いいんですね。』
「ええ。
正解も、手順もありません。
今日は、判断を下さない練習です。」
一口、二口。
男性の咀嚼はゆっくりになり、視線が皿から外れ、虚空に落ちる。
『部下の前だと、
“今、何を言うべきか”
“どう指示を出すべきか”
そればかり考えていました。』
「リーダーでいる限り、避けられない役目です。
ですが、常に続ける必要はありません。」
サポーターの男が、水を静かに注ぐ。
音はほとんどしない。
『……ここでは、
黙っていても、責められないですね。』
「ええ。沈黙も、立派な滞在理由です。」
男性は箸を置き、少しだけ目を閉じる。
料理はまだ残っているが、急ぐ様子はない。
判断も、指示も、責任も。
今この瞬間だけ、皿の外に置かれていた。
二品目の皿が下げられても、男性はすぐに次を求めなかった。
その沈黙を、私はそのまま受け取る。
「三品目は……音を減らします。」
サポーターの男が運んできたのは、器というより“余白”に近い皿だった。
湯気も香りも、主張しない。
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《言葉の無い蒸し椀》
蓋を取ると、淡い出汁の中に、柔らかな豆腐と白身魚。
具材は少なく、配置にも意味を持たせていない。
混ぜなくていい。
説明も、感想も、いらない。
男性は蓋を取ったまま、しばらく眺めている。
『……静かですね。』
「はい。
沈黙が邪魔されないように、料理も黙っています。」
最初の一口は、音を立てないように。
二口目は、さらにゆっくり。
咀嚼の間に、何も挟まれない。
サポーターの男は、義手を膝に置いたまま動かない。
店全体が、呼吸の数だけで進んでいく。
『……部下の前だと、
沈黙は“次の指示を待たれている時間”でした。』
「ここでは違います。
沈黙は、完成形です。」
男性は小さく息を吐き、肩を預けるように背もたれにもたれる。
目線は下がり、外界から切り離されていく。
『……何も考えなくても、
自分が消えない感じがします。』
「それが、沈黙を楽しめている証拠です。」
器の中身は、いつの間にか少なくなっている。
だが、急ぐ必要はない。
この店では、
言葉を使わない時間こそが、
もっとも深く満たされる一皿だった。
蒸し椀が下げられても、店内の静けさは崩れなかった。
男性は無理に姿勢を正さず、ただ椅子に身を預けている。
「最後は、沈黙を連れて帰るための甘味です。」
サポーターの男が、小さな器を置く。
義手が触れた音さえ、ここでは一つの区切りになる。
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《境界を越えない微甘の寒菓》
透明に近い寒天に、わずかな甘味。
砂糖は使わず、穀と水だけで整えた味。
噛まずに、溶かすように食べる。
男性は一口含み、目を閉じた。
『……甘いけど、
引き止められないですね。』
「ええ。
職場に戻っても、邪魔をしない甘さです。」
二口目、三口目。
食べ終わる頃には、呼吸が自然な速さに戻っている。
『判断も指示も、
また明日には必要になります。
でも……ずっと握りしめなくても、いいんですね。』
「はい。
必要な時だけ、取り出せばいい。」
サポーターの男は、何も言わずに深くうなずく。
男性は席を立ち、制服の襟を整える。
その動きに、先ほどまでの硬さはない。
『ここで過ごした沈黙、
国境の向こうには持っていけませんが……
自分の中には、残せそうです。』
「それで十分です。
この店は、一度きりですから。」
扉が閉まる。
判断も指示もない時間は、店に残らない。
だが、確かに一人の入国審査官の内側に、
静かな余白として刻まれていた。




