勝敗なき盤面に還る一局
プロンプト
登場人物:棋士 70代 男性
店の扉が静かに開き、白髪の男性が一礼して入ってくる。
長年の時間を指先に刻んだような、落ち着いた佇まいだ。
サポーターの男が、無言で個人認証カードを受け取り、義手で端末に通す。
店内に、静かな確認音が鳴る。
店長は、カードの情報に目を落とし、小さく頷いた。
「棋士、七十代……長い時間、盤と向き合ってこられましたね」
男は、席に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
『ええ。気づけば、この歳です』
店長は厨房に立ち、火を入れすぎないよう慎重に鍋を扱う。
考える時間、待つ時間、読み切らない余白。
それは、勝負の世界で培われた感覚とよく似ている。
サポーターの男が、器を温めながら一言添える。
「……今日は、急がなくていい一局ですね」
やがて、最初の一品が運ばれる。
《静寂に沈む白湯と昆布の澄み椀》
湯気は控えめで、香りだけが先に届く。
店長は、器を差し出しながら語りかける。
「これは、読む手を一度止めるための一椀です。
勝ちも負けも考えず、ただ盤面を眺める前の時間を思い出してもらえたら」
男性は、器を両手で包み、しばらく動かなかった。
そして、静かに一口すする。
『……懐かしいな。若い頃、師匠の家で飲んだ白湯に似ている』
その言葉に、店長は微笑む。
「最初の一手は、いつも静かですからね」
店内には、駒を置く音の代わりに、白湯の余韻だけが残っていた。
白湯の椀が静かに下げられる。
男性の呼吸は、来店時よりもゆったりとしていた。
店長は、次の料理に取りかかる。
火は弱く、音を立てない。
煮るでも焼くでもなく、「並べる」工程が多い料理だ。
サポーターの男が、食材を盤上の駒のように配置しながら、ぽつりと言う。
「……勝ち筋を探さなくても、盤を見る時間って、ありますよね」
店長は頷いた。
「ええ。今日は“読む”より、“眺める”時間を」
やがて、二品目が供される。
《盤面を味わう九枡前菜》
黒い角盆の上に、九つの小さな枡。
胡麻豆腐、白和え、焼き茄子、青菜のお浸し、出汁巻き、
酢の物、煮豆、香の物、少量の味噌田楽。
どれも主張しすぎず、しかし位置に意味がある。
店長は、そっと説明する。
「順番は決めていません。
一手目も、二手目も、今日は自由です」
男性は、箸を取る前に、しばらく全体を眺めていた。
まるで、対局前に盤を見渡すように。
『……なるほど。これは、いい盤面だ』
そう呟いてから、角の枡に箸を伸ばす。
一口食べ、次は中央。
また少し戻って、別の枡。
『急がなくていい。勝たなくていい。
ただ、ここにある形を楽しめばいいんだな』
店長は、男性の動きを邪魔しないよう、少し距離を取って見守る。
「長く指している方ほど、結果を背負ってしまいますから」
サポーターの男も、低く頷く。
「……盤は、楽しむためにありますから」
男性は、九枡を少しずつ行き来しながら、自然と背筋を緩めていった。
勝負の緊張ではなく、盤そのものを愛していた頃の感覚が、
静かに戻ってきているようだった。
二品目の皿の上には、
“勝敗のない一局”が、穏やかに広がっていた。
九枡の角盆が下げられると、卓の上は一度、何もない状態になる。
その「空白」を、店長は大切にした。
店長は、炊飯器の蓋を開けず、蒸らしの時間をさらに伸ばす。
焦らない。
ここは、手を出さない勇気の場面だ。
サポーターの男が、義手で器を磨きながら、低く言う。
「……次の一手、指さなくてもいい時間ですね」
「ええ。盤そのものと向き合ってもらいましょう」
やがて、三品目が運ばれる。
《無手に還る炊き立て米と影の吸い物》
白い飯椀には、何も混ぜていない米。
香りだけが、静かに立ち上る。
隣には、具を沈めたまま姿を見せない澄んだ吸い物。
店長は、器を置きながら語る。
「これは、“手を考えない盤面”です。
何を足すかではなく、何も置かれていないことを味わってください」
男性は、飯椀を前にして、しばらく動かなかった。
箸も取らず、ただ白を見つめている。
『若い頃はな……
盤に何も無い時間が、いちばん好きだった』
そう呟いてから、ようやく一口、米を噛む。
噛むほどに甘みが広がり、余計な思考が消えていく。
吸い物を一口含むと、出汁だけが静かに喉を通った。
『ここには、勝ちも負けも無い。
読みも評価値も無い。
……盤が、呼吸している』
店長は、微笑みながら少しだけ頭を下げる。
「長く指された方だけが、そこに戻れます」
サポーターの男も、そっと言葉を添える。
「……駒を置く前の盤が、いちばん豊かですよね」
男性は、米と吸い物を交互に味わいながら、
まるで対局前の静寂に身を委ねるように、目を閉じた。
三品目は、
“深く盤面を楽しむための、何も起こらない一局”。
その静けさが、
この店でしか味わえない、最深の贅沢となっていた。
三品目の器が静かに下げられる。
卓の上には、もう何も置かれていない。
それでも、盤面は確かに残っていた。
店長は、最後の支度に入る。
甘さを足すのではなく、時間を閉じるための一皿。
サポーターの男が、小さな器をそっと温めながら言う。
「……終局図ですね」
「ええ。勝敗を書かない終局です」
やがて、最後のデザートが供される。
《余白を愛でる白胡麻の淡雪甘味》
白胡麻をすり、甘さは最小限。
ふわりと仕上げた淡雪のような口当たり。
上には何も飾られていない。
店長は、静かに語りかける。
「これは、“盤を離れたあと”の甘味です。
もう考えなくていい。
余白を、そのまま持ち帰ってください」
男性は、小さく笑った。
『……いいな。
最後まで、駒が出てこない』
一口食べると、甘さはすぐに消え、
白胡麻の香りだけが、ゆっくりと残る。
『勝ち負けより、
盤と向き合っていた時間の方が、ずっと長かった』
その言葉に、店長は深く頷いた。
「その時間こそが、棋士の財産です」
サポーターの男も、静かに一礼する。
「……いい一局でした」
男性は、ゆっくりと席を立ち、店の出口へ向かう。
振り返らず、しかし足取りは穏やかだ。
『ありがとう。
また……いや、一度きりだったな』
「はい。ですが、この盤面は、これからも続きます」
扉が閉まり、店内に静寂が戻る。
駒音のない余韻だけが、長く残っていた。
――終局。
勝敗の記されない、
それでも確かに豊かな一局が、
ここで静かに完結した。




