名札のない席に、明日を残す
プロンプト
登場人物:ホテル 従業員 30代 男性 転職したて
店の扉が、静かに開いた。
『……こんばんは。あの、ここで食事をお願いできますか。転職したばかりで、少し……落ち着きたくて。』
店長は小さく頷き、カウンター奥で一枚のカードに目を落とす。
──ホテル従業員・30代・男性・転職したて。
「ようこそ。一度きりの店へ。
まずは、あなたの“今の立場”を支える一皿から始めましょう。」
サポーターの男は、義手で静かに鍋を押さえながら言う。
「環境が変わった直後は、体も心も“立ち位置”を探してますからね。」
店長は火を弱め、ゆっくりと器を温めた。
「ホテルで働く人は、いつも“裏側”から空間を整える。
今日は、その役割をそのまま料理にします。」
そうして差し出された、最初の一品。
《静かな裏方の澄まし汁》
透き通った出汁に、細く刻まれた根菜と白身魚。
派手さはないが、口に含むと温度と塩気が正確に整っている。
『……あ。
これ、主張しないのに、ちゃんと満たされますね。』
店長は微笑み、静かに応える。
「ええ。あなたが今いる場所も、そういう位置です。
まだ目立たなくていい。まずは“場に馴染む”ことから。」
サポーターの男は、客の表情がわずかに緩んだのを見て、頷いた。
静かな一皿が、転職したての男の呼吸を、少しだけ深くしていた。
男は、器を置き、少し肩の力を抜いた。
『……不思議ですね。
まだ慣れてない職場と同じで、静かなのに落ち着きます。』
店長は、その言葉を受け取り、次の準備に入る。
サポーターの男は、義手でまな板を押さえ、一定のリズムで包丁を入れていた。
「“場に馴染む”というのは、無理に自分を出すことじゃない。
まずは、周りの温度と速さを身体に覚えさせることです。」
鍋に油は使わず、湯気だけを立たせる。
素材同士が、音を立てずに寄り添っていく。
サポーターの男が、静かに言葉を添えた。
「ホテルも同じですよね。
最初はマニュアル通りでも、いつの間にか動線が身体に入る。」
店長は頷き、器に盛りつけた。
「これが、二品目です。」
《席の温度に溶ける蒸し鶏と季節野菜》
柔らかく蒸された鶏肉に、淡い塩味。
主張しすぎない野菜が、隙間を埋めるように添えられている。
『……あ。
噛むほどに、味が出てきますね。』
店長は、少しだけ声を低くして言った。
「最初は薄く感じるくらいでいい。
場に馴染む人は、後から“効いてくる”。」
男は黙って食べ進める。
一口ごとに、肩の緊張がほどけていくのが、サポーターの男にもわかった。
新しい職場で、まだ名前を覚えきれていない男は、
この二品目で、“ここに居てもいい”という感覚を、静かに受け取っていた。
男は、最後の一口を飲み込み、深く息を吐いた。
『……だいぶ、落ち着きました。
でも、正直に言うと……
まだ、自分の居場所を作れている感じはしなくて。』
店長は、その言葉を待っていたかのように、静かに火を入れ直す。
サポーターの男は、義手で鍋を支え、ゆっくりと円を描くように混ぜた。
「馴染む、の次は――“残す”ことです。」
男は顔を上げた。
「新しい場所では、最初から居場所は用意されていません。
自分が動いた分だけ、少しずつ形になります。」
鍋の中で、具材が溶け合い、しかし輪郭を失わない。
誰かの代わりではなく、“その人の手跡”が残る料理。
サポーターの男が、低く言う。
「同じ作業でも、
あなたの呼吸、あなたの気づきが入ると、場が変わるんです。」
店長は器を置いた。
「三品目です。」
《名札のない役割を育てる小さな煮込み》
一口サイズの具材が、同じ鍋で煮込まれながら、
それぞれ違う食感と味を保っている。
『……これ。
全部一緒なのに、どれも違う。』
店長は、静かに微笑んだ。
「ええ。居場所は、与えられるものじゃない。
“あなたがそこにいた痕”が、役割になります。」
男は、ゆっくりとスプーンを進める。
その表情から、焦りが消え始めていた。
新しいホテルの廊下で、
彼がこれから残していく小さな気配や工夫を、
この三品目は、言葉にせず教えていた。
男は、煮込みの器を空にし、しばらくそのまま座っていた。
急いで次へ向かう気配は、もうない。
『……不思議ですね。
転職したばかりで、ずっと“ちゃんとしなきゃ”って思ってたのに、
少し先の時間まで、考えられるようになりました。』
店長は、その言葉に小さく頷き、最後の準備に入る。
サポーターの男は、義手で木べらを置き、静かに見守った。
「居場所というのは、
続けた人だけが、後から気づくものです。」
火は使わない。
冷やしすぎず、甘すぎず、終わりを告げる温度だけを整える。
「これが、最後のデザートです。」
《明日も戻れる席を残すミルク菓子》
柔らかな甘さが、舌に触れた瞬間にほどける。
記憶に残りすぎないが、ふと思い出せる味。
『……ああ。
“また明日もやれる”って、思えますね。』
店長は、穏やかに言った。
「それで十分です。
居場所は、“帰ってこれる感覚”から育ちます。」
男は、器を置き、深く頭を下げた。
『ありがとうございました。
明日は……少しだけ、自分のやり方を残してみます。』
サポーターの男は、扉を開けながら一言だけ添える。
「それが、最初の居場所ですよ。」
男は振り返らず、静かに店を出ていった。
この店には、二度と戻らない。
だが、彼の中には、
新しい場所で席を作っていくための、
確かな温度だけが、残っていた。




