噛み締める誇り ― 歯科医師に捧げる三皿
プロンプト
登場人物:歯科医師 男性 30代
静かな店内。扉が一度だけ開き、男が入ってくる。
『……こんばんは。』
店長は、差し出された登場人物の個人認証カードに目を通した。
――歯科医師/男性/30代。
毎日、他人の痛みに正面から向き合い、細かな神経を使い続ける仕事。
店長は、火を弱め、鍋の音に耳を澄ませた。
サポーターの男は、義手で静かに器を温めている。
店長は、頷くように一言。
「最初は、あなたの“集中し続けた神経”をほどく一品にしましょう。」
サポーターの男は、「はい。」と短く答え、皿を差し出した。
⸻
《奥歯の力を抜く白湯仕立ての根菜椀》
⸻
湯気は強すぎず、香りも控えめ。
噛まなくていい、ただ口に含むだけの温度。
「治療中、あなたはいつも“力を抜け”と言いながら、
ご自身はずっと力を入れたままだ。」
店長は、そう言って器を置いた。
『……確かに。』
男は一口、静かに飲んだ。
『……あ。』
言葉にならないまま、肩がわずかに下がる。
噛み締めていた奥歯が、自然と離れた。
サポーターの男は、その様子を見て、何も言わず一歩下がった。
店長は、小さく微笑む。
「今日は、“治す側”を休んでください。
ここでは、何もしなくていい。」
白湯が、ゆっくりと男の中に染みていった。
白湯の器が空になる頃、店内の空気が一段、柔らいだ。
歯科医師の男は、背もたれに深く身を預けている。
無意識に揃えていた指先も、今は机の上で自然に開いていた。
『……不思議ですね。
何かを考えなきゃ、って気持ちが消えてきました。』
店長は、その言葉を聞いてから、次の鍋に火を入れた。
音を立てないよう、静かに、ゆっくりと。
サポーターの男は、義手で葉物を一枚ずつ丁寧にちぎり、皿に並べていく。
「二品目は、“力を抜こうとしなくていい”料理です。」
店長は、火を止め、深く息を吐いた。
⸻
《噛まない選択を許す蒸し鶏と温菜の皿》
⸻
歯ごたえを消した鶏肉。
歯を立てなくても、舌だけでほどける。
添えられた温野菜も、芯まで柔らかい。
『……歯医者なのに、噛まなくていい料理なんですね。』
男は、少し笑った。
「だからこそです。
“噛む”“力を入れる”“正しくする”
その全部から、今日は離れてもらう。」
男は、箸を取る。
一口目、噛もうとして――やめた。
『……あ、いらない。』
そのまま、舌で転がすように食べる。
肩が、もう一段落ちる。
背中に入っていた力が、椅子に溶けていく。
サポーターの男が、低い声でぽつりと言った。
「先生の手、今、休んでますね。」
歯科医師の男は、自分の手を見て、少し驚いたように瞬きをした。
『……本当だ。
いつも、次の治療のこと考えて、
無意識に力が入ってました。』
店長は、皿を下げながら静かに告げる。
「力を抜く、というのは
“何もしない”ことじゃない。
“しなくていいことを、しない”だけです。」
男は、最後の一口をゆっくり飲み込んだ。
『……今日は、それが分かる気がします。』
店内に、時計の音だけが残った。
二品目は、確かに“力を抜く”時間を、男の中に置いていった。
二品目の皿が下げられると、歯科医師の男はしばらく動かなかった。
休ませていた手を、そっと膝の上に置いたまま、静かに呼吸している。
『……歯を使わない食事って、
こんなに安心するんですね。』
店長は、その言葉を受け止めるように、ゆっくりと頷いた。
そして、少しだけ姿勢を正す。
「では、三品目です。」
サポーターの男は、義手で木箱を開き、中の器を慎重に取り出した。
その所作は、まるで大切な道具を扱う職人のようだ。
「今度は、歯に“役割”を返します。
酷使でもなく、放置でもない。
誇りとしての歯です。」
火は使わない。
音も、匂いも、控えめ。
⸻
《歯に栄誉を与える静かな噛み締め膳》
⸻
一口大に整えられた雑穀飯。
歯に当てると、やさしく、確かな抵抗だけを返す。
添えられた発酵野菜は、噛むほどに旨みがほどける。
『……これは……噛みたくなりますね。』
男は、そう言ってから、一口運ぶ。
今度は、逃げない。
――噛む。
――でも、力まない。
『……あぁ。』
その声は、治療中に患者へかける声よりも、ずっと低く、穏やかだった。
店長は、静かに言葉を添える。
「歯は、削るためだけのものじゃない。
噛み締めることで、
“生きている感覚”を返してくれる。」
男は、ゆっくりと噛み、飲み込み、また一口。
『……毎日、人の歯を守っているのに、
自分の歯が、こんなふうに働いているって
考えたこと、なかったです。』
サポーターの男が、控えめに言った。
「先生の噛み方、今、きれいですよ。」
歯科医師の男は、一瞬きょとんとしてから、照れたように笑った。
『……それは、
初めて言われました。』
噛む音は、小さい。
けれど確かで、乱れがない。
最後の一口を飲み込んだとき、男は自然と背筋を伸ばしていた。
力ではなく、芯で立つ姿勢。
店長は、器を下げながら、静かに締めくくる。
「今日は、歯を“働かせた”んじゃない。
歯に、敬意を払っただけです。」
歯科医師の男は、深く息を吐き、静かに頷いた。
『……明日から、
自分の歯にも、
ちゃんと挨拶してから仕事を始めます。』
店内に、噛み締めの余韻だけが、穏やかに残っていた。




