合否を預け、灯りだけを残す夜
プロンプト
登場人物:塾講師 30代 男性 教え子が来店時入試前
静かな店に、男が入ってきた。
背筋は伸びているが、目の奥に張りつめたものがある。
『こんばんは。……少し、頭を休ませたくて。』
店長は、差し出された登場人物の個人認証カードに目を通す。
――塾講師、30代、男性。
――教え子が、今まさに入試前。
店長は一度だけ、小さくうなずいた。
「なるほど。教える側が、いちばん息を詰めてしまう時期ですね」
サポーターの男は、義手でカウンターを拭きながら静かに言う。
「背負いすぎると、言葉が硬くなりますからね」
店長は火を弱め、最初の一品を作り始めた。
⸻
《言葉をほどく白味噌の朝餉》
湯気は控えめ、香りは近く、味は深く。
白味噌に、すりおろした長芋。
刻んだ春菊をほんの少し、最後に米を崩さず添える。
「これは、教え子のための料理でもあります」
「答えを与えすぎない。でも、迷った時に戻れる場所を残す味です」
料理が置かれると、男は一瞬、箸を止めた。
『……朝、教室に一番早く来る生徒がいるんです』
『何も聞かずに、ただ席に座ってる。でも、俺は……何か言わなきゃって』
サポーターの男が、低く続ける。
「黙って座るのも、準備の一つかもしれませんね」
男は一口、ゆっくりと口に運んだ。
『……優しい』
『説明しなくても、伝わる感じがします』
店長は、包丁を置いたまま答える。
「今夜は、あなたが“整う”番です」
「教え子には、明日。今日は、言葉を休めましょう」
男の肩が、ほんのわずかに下がった。
湯気の向こうで、時間だけが静かに流れていた。
白味噌の器が下げられると、店の空気は一段、静まった。
男は背もたれに軽く体を預け、無意識に深く息を吐く。
『……さっきの一品で、少し力が抜けました』
サポーターの男が、義手で湯のみを差し出す。
「今、抜けた力は大事ですよ。戻そうとしなくていい」
店長はその言葉に応えるように、二品目の準備に入った。
火は使わない。音も立てない。
「次は、思考を止める料理です」
「“考えない”ことを、許す一皿にしましょう」
⸻
《黒胡麻と湯豆腐の無言皿》
柔らかく温めた豆腐に、練りすぎない黒胡麻だれ。
上には何も乗せない。飾りも、説明も省く。
器が置かれると、男は何も言わず、箸を伸ばした。
……ゆっくり。
噛む必要もなく、ただ温度と重さだけが口に残る。
『……あぁ』
『これ、説明しなくていいですね』
サポーターの男が、小さくうなずく。
「塾では、ずっと説明してますから」
男は二口目を運び、目を閉じた。
『生徒の顔が、浮かばない』
『……今は、それでいい気がします』
店長は、静かに答える。
「浮かばない時間があるから」
「明日、自然に言葉が出てくるんです」
器が空になるころ、男の呼吸は整い、
背中の緊張は、椅子に預けられていた。
店内には、
“何も考えなくていい時間”だけが、確かに残っていた。
店内の時計は動いているはずなのに、
秒針の音だけが、どこか遠い。
男は肘をつき、湯のみを両手で包んでいた。
もう、姿勢を正そうとはしていない。
『……頭の中、静かです』
『生徒の点数も、合否も、今は出てこない』
サポーターの男が、義手を膝に置いたまま応じる。
「それで十分です。思考が眠っています」
店長は、最後に火を入れる。
だが、強くはしない。
温度は“目が覚めない程度”。
「三品目は、時間そのものを溶かします」
「何も考えなくていい時間を、もう少しだけ続けましょう」
⸻
《白湯に溶ける鶏と米の薄粥》
具は最小限。
ほぐした鶏、やわらかくほどけた米。
味付けは、塩を“思い出す程度”。
湯気は静かで、香りも主張しない。
男は箸ではなく、匙を選んだ。
一口、二口――
数えることすら、やめている。
『……あぁ』
『食べてるのに、食べてる感じが薄い』
店長は、低い声で答える。
「考えなくていい、という合図です」
「体だけが、先に休んでいます」
サポーターの男が、少し笑う。
「授業の合間に、こんな時間があったら最高ですね」
男は、ゆっくりうなずいた。
『……生徒には、頑張れって言わなくてもいいかもしれない』
『ただ、いつも通りに、俺が立っていれば』
最後の一匙を置いた時、
男のまぶたは、少し重くなっていた。
店の中には、
“何も考えなくていい時間”が、途切れずに続いていた。
粥の器が下げられても、男はすぐには姿勢を戻さなかった。
目を閉じたまま、しばらく呼吸だけをしている。
サポーターの男が、小さな声で言う。
「……このまま終わらせると、少し寂しいですね」
店長は静かに頷いた。
「ええ。最後は“明日に持ち帰れる甘さ”にしましょう」
火も音も使わない。
冷たすぎず、甘すぎず。
意識を起こさず、心だけをそっと前へ置く。
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《合否を預ける白蜜ミルク羹》
牛乳と寒天を、限界までやわらかく固める。
上からかけるのは、白蜜をほんの一筋だけ。
スプーンが、抵抗なく沈む。
男は器を見つめ、少しだけ微笑った。
『……結果は、俺のものじゃないですもんね』
『でも、ここまで一緒に来た時間は、本物だ』
サポーターの男が、静かに応じる。
「預ける、という選択も、教える仕事です」
男は一口食べ、目を開けた。
『甘いけど……軽い』
『胸に残らない。これなら、明日も立てそうです』
店長は、最後にこう言った。
「合否は、外にあります」
「あなたがやることは、教室に立つことだけ」
デザートが空になる頃、
男は深く一度、頭を下げた。
『ごちそうさまでした。……行ってきます』
扉が閉まる。
この店は、もう二度と開かれない。
カウンターに残ったのは、
何も考えなくていい時間が、役目を終えた静けさだけだった。




