表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅蓮の花  作者: アザネ
5/88

第1章 荒れ地の少女 5. 町の裏社会と孤独

サグラの町には、表の顔と裏の顔がある。

 表の顔は、市場や仕立て屋、井戸の列のような日常の営み。

 裏の顔は、日が暮れてから動き出す。


 夜になると、通りの奥から低い笑い声や押し殺した怒鳴り声が聞こえてくる。松明の明かりが石壁を揺らし、時おり鋭く光る刃物がちらりと見える。盗品や密売品の取引、賞金首の取り合い、そして賭場。

 ここでは、法も正義も、金か力のある者だけが持つ特権だ。


 ヨウリンは、できるだけ裏の顔に近づかないようにしていた。

 けれど、貧しい暮らしの中では、避けて通れない瞬間がある。

 たとえば、母が仕立てた服を届けに行った先が、裏通りの「顔役」の家だったとき。

 たとえば、布代の代わりに渡された硬貨が、明らかに盗品の金貨だったとき。


 そういう場面では、余計な言葉を吐かないのが生き延びる鉄則だ。

 見たことを見なかったようにし、聞いたことを聞かなかったようにする。

 ただし――逃げる足は、いつでも使えるようにしておく。


 ある晩、母が体調を崩した。

 仕立て屋の手伝いも井戸汲みも、ヨウリンひとりでやらなければならなかった。

 さらに、薬を買うために裏通りへ足を踏み入れる必要があった。

 町の外れ、灯りのほとんどない細道。壁に寄りかかった獣人の男が、じろりとこちらを見た。狼の耳が月明かりに揺れ、口の端に笑みが浮かぶ。


 「おや、赤い髪の嬢ちゃん。こんな時間にどこへ?」

 ヨウリンは返事をせず、足を止めない。

 「薬か……なら、俺が安く譲ってやろう」

 差し出された手の中に、小さな袋が見える。中身は本物の薬かもしれないし、毒かもしれない。


 ヨウリンは軽く足の位置をずらし、壁から距離を取る。

 つま先がわずかに外側を向き、膝が沈む――逃げの構え。

 「いらない」

 短くそう言って通り過ぎた。背後で男の舌打ちが響くが、追ってくる足音はない。


 裏通りを抜けると、少し広い路地に出た。

 そこでは、金髪の獣人が賭け試合をしていた。相手は人間の男。

 周囲の観衆が金貨や銀貨を放り投げ、歓声を上げる。

 ヨウリンは立ち止まり、その戦いを見た。

 拳と拳がぶつかり、足と足が弾ける。獣人の蹴りは重く、踏み込みのたびに石畳がきしむ。人間の男は低い姿勢から素早く回り込み、胴を狙って拳を打ち込む。


 ――武闘会も、こういう戦いなのだろうか。

 いや、きっともっと大きな舞台で、もっと多くの目が見ているはずだ。

 だが、この裏通りの戦いにも、確かに人々を惹きつける力があった。


 試合が終わると、観衆は散り、路地は再び静かになった。

 ヨウリンは自分の足を見下ろす。

 この足で、あの舞台に立てるのだろうか。

 夢と現実の距離は、まだあまりにも遠い。


 帰宅すると、母は浅い眠りの中で息をしていた。

 ヨウリンは足音を立てないように寝床の横に座り、母の手を握る。

 その手は細く、軽く、まるで乾いた布のようだった。

 ――守るには、この足しかない。

 そしていつか、この足で遠くへ行く。

 それが裏通りの暗闇の中で芽生えた、彼女の静かな誓いだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ