第1章 荒れ地の少女 5. 町の裏社会と孤独
サグラの町には、表の顔と裏の顔がある。
表の顔は、市場や仕立て屋、井戸の列のような日常の営み。
裏の顔は、日が暮れてから動き出す。
夜になると、通りの奥から低い笑い声や押し殺した怒鳴り声が聞こえてくる。松明の明かりが石壁を揺らし、時おり鋭く光る刃物がちらりと見える。盗品や密売品の取引、賞金首の取り合い、そして賭場。
ここでは、法も正義も、金か力のある者だけが持つ特権だ。
ヨウリンは、できるだけ裏の顔に近づかないようにしていた。
けれど、貧しい暮らしの中では、避けて通れない瞬間がある。
たとえば、母が仕立てた服を届けに行った先が、裏通りの「顔役」の家だったとき。
たとえば、布代の代わりに渡された硬貨が、明らかに盗品の金貨だったとき。
そういう場面では、余計な言葉を吐かないのが生き延びる鉄則だ。
見たことを見なかったようにし、聞いたことを聞かなかったようにする。
ただし――逃げる足は、いつでも使えるようにしておく。
ある晩、母が体調を崩した。
仕立て屋の手伝いも井戸汲みも、ヨウリンひとりでやらなければならなかった。
さらに、薬を買うために裏通りへ足を踏み入れる必要があった。
町の外れ、灯りのほとんどない細道。壁に寄りかかった獣人の男が、じろりとこちらを見た。狼の耳が月明かりに揺れ、口の端に笑みが浮かぶ。
「おや、赤い髪の嬢ちゃん。こんな時間にどこへ?」
ヨウリンは返事をせず、足を止めない。
「薬か……なら、俺が安く譲ってやろう」
差し出された手の中に、小さな袋が見える。中身は本物の薬かもしれないし、毒かもしれない。
ヨウリンは軽く足の位置をずらし、壁から距離を取る。
つま先がわずかに外側を向き、膝が沈む――逃げの構え。
「いらない」
短くそう言って通り過ぎた。背後で男の舌打ちが響くが、追ってくる足音はない。
裏通りを抜けると、少し広い路地に出た。
そこでは、金髪の獣人が賭け試合をしていた。相手は人間の男。
周囲の観衆が金貨や銀貨を放り投げ、歓声を上げる。
ヨウリンは立ち止まり、その戦いを見た。
拳と拳がぶつかり、足と足が弾ける。獣人の蹴りは重く、踏み込みのたびに石畳がきしむ。人間の男は低い姿勢から素早く回り込み、胴を狙って拳を打ち込む。
――武闘会も、こういう戦いなのだろうか。
いや、きっともっと大きな舞台で、もっと多くの目が見ているはずだ。
だが、この裏通りの戦いにも、確かに人々を惹きつける力があった。
試合が終わると、観衆は散り、路地は再び静かになった。
ヨウリンは自分の足を見下ろす。
この足で、あの舞台に立てるのだろうか。
夢と現実の距離は、まだあまりにも遠い。
帰宅すると、母は浅い眠りの中で息をしていた。
ヨウリンは足音を立てないように寝床の横に座り、母の手を握る。
その手は細く、軽く、まるで乾いた布のようだった。
――守るには、この足しかない。
そしていつか、この足で遠くへ行く。
それが裏通りの暗闇の中で芽生えた、彼女の静かな誓いだった。