第1章 荒れ地の少女 3. 初めての危機
その日も、陽は容赦なく照りつけていた。
井戸の列は長く、砂の熱気が地面から立ち上がって、視界がゆらゆらと揺れる。ヨウリンは壺を肩にかけ、静かに順番を待っていた。列の先頭にいるのは顔見知りの老婆で、次に続くのは大柄な男たち。その中の一人――頬に刀傷を持つ男が、じろりと振り返り、ヨウリンを頭からつま先まで舐めるように見た。
「おい、小娘。重いだろ、その壺。先に俺に渡してみな」
乾いた声。冗談ではない響き。
ヨウリンは返事をせず、視線を砂に落とす。砂の粒の大きさ、壺の重さ、自分の足の位置――それだけを測る。
男は一歩近づいた。
「耳が悪いのか? 渡せって言ってんだ」
列の周囲の視線が一斉に集まる。助けようという気配はない。むしろ「どっちが勝つか」を見物するような空気だ。ここでは、誰も他人の争いに首を突っ込まない。勝った方が正しいのだから。
男の手が、ヨウリンの壺の縄をつかんだ。
縄がきしみ、肩から重みが抜ける――その瞬間、ヨウリンの体は反射的に動いた。
右足が半歩後ろへ引かれ、膝が沈む。同時に左足が前に滑り出す。
足の甲が、低い弧を描いて男の膝裏を払った。
「……っ!」
男の膝が崩れ、上体が前へ落ちる。ヨウリンは体をひねり、踵で男の肩口を押し返した。
その一連の動きは、本人の意識よりも早かった。
男は地面に膝をつき、片手を砂に突く。壺は再びヨウリンの肩に戻っていた。
周囲がざわめく。誰もが見た――小柄な少女が、大の男を一瞬で膝つかせた瞬間を。
男は歯を食いしばり、立ち上がろうとする。
だが、ヨウリンはすでに距離を取っていた。つま先が砂をかすめる音だけが残り、彼女の足は揺れない。
「……チッ」
男は舌打ちし、列から離れた。井戸の周囲の空気が再び静かになる。
ヨウリンは何も言わなかった。
だが、胸の奥では何かが燃えていた。
――動けた。
考える前に、足が選んだ。膝裏、肩、距離、重心。全部を瞬時に組み合わせて、体が形を作った。
それは、これまでの遊びでも練習でもない。生き延びるための、本物の一撃だった。
水を汲み、壺を満たし、帰路につく。
夕方、岩場で同じ動きを繰り返してみる。
膝を沈め、足を払う。踵で押す。砂がわずかに舞い、夕陽がその粒を赤く染める。
「……違う」
井戸での一撃はもっと速く、もっと鋭かった。思い返そうとしても、動きは霞のように曖昧だ。
繰り返す。
何度も繰り返す。
足は徐々に馴染んでいくが、あの日の瞬間の鋭さには届かない。
――あれは、きっと「生きるための蹴り」だった。
ヨウリンはそう理解した。あの瞬間の研ぎ澄まされた感覚を、今度は自分の意思で引き出せるようにしなければならない。
その夜、母には何も話さなかった。
けれど、足の裏にまだ残るあの「崩れる感触」が、ヨウリンの胸をざわつかせていた。