第1章 荒れ地の少女 2. 幼少期の生活
ヨウリンの朝は、いつも足音から始まる。
裸足が冷たい土間を打つ音。乾いた砂が皮膚に貼りつき、指の間でかすかに鳴る。その感覚が目覚ましの代わりだった。家と呼ぶには心許ない、日干し煉瓦の一間。壁に掛けた布の向こうには、母の寝息がある。父の息は、ない。彼はヨウリンが三つのとき、季節外れの砂嵐に巻き込まれて戻らなかった、と聞かされていた。
母の名はナジュ。痩せ細った腕に芯の強さを隠した女で、仕立て屋の手伝いをしながら、日々の糧をつないでいる。仕立て屋といっても、町の人が着るのは古着の継ぎ接ぎがほとんどだ。新調など祭りの季節以外にはまずない。だから仕事は「直す」ことがほとんどで、ナジュの針は破れ目をつなぎ合わせ、ほつれを縫いとめ、擦り切れた袖口にまた明日を与える。
「水、お願いね」
朝いちばん、母は短く言う。ヨウリンは頷き、肩に縄を回す。縄の両端には小さな壺が二つ。壺は薄くて軽いが、水を入れれば重くなる。重くなるからこそ、足の裏で地面を確かめることが大事だと、彼女はもう知っていた。
井戸までの道は、平坦ではない。ところどころに盛り上がった土のこぶ、馬車がつけた深い轍、崩れた壁片――それらを避けるには、足で読むほかない。
ヨウリンは踵をほとんど地につけず、つま先から滑り込むように体を前へ送る。砂を蹴れば足を取られ、力を真っ向からぶつければ壺が揺れる。だから、踏んだ瞬間に重心を抜く。砂の上に「乗る」のでなく、砂の「上を行く」。彼女はそれを遊びのように繰り返した。
「一、二、三。……三で抜く」
心の中で数え、三歩目でふっと体を軽くする。壺が揺れない。揺れないと、母に叱られない。叱られないと、夕方に少しだけ余ったパンの端をもらえる。単純な理屈が、幼い脚を賢くした。
井戸には列ができている。ヨウリンと同じくらいの子どももいれば、肩幅の広い男たちもいる。誰もが無言で順番を待ち、少しでも割り込めば拳が飛ぶ。
ヨウリンは列に背を向けると、井戸を囲む低い石垣の縁にひょいと上がった。細い縁の上を、落ちないように、ゆっくり歩く。足の親指と人差し指で縁を挟み込むようにして、土のざらつきと石の冷たさを確かめる。
「バカな真似を……」
誰かが小声で言う。だが止める者はいない。ここでは、誰もが自分の足で立つしかないからだ。
順番が来ると、ヨウリンは壺を下ろし、ゆっくり水を汲む。慌てれば濁りが立つ。静かに、そして早く。汲み上げる腕の筋が細く固くなり、肩甲骨の内側に熱がたまる。
帰り道は行きより難しい。壺は揺れ、水は重い。彼女は歩幅を少し狭め、つま先の接地時間を短くする。左右の足に重さを均等に送るのではなく、常に片方を軽くしておく。重い足と軽い足――その繰り返しが、揺れを消す。
このやり方を、ヨウリンは誰に教わったわけでもない。ただ、生き延びるために、体が覚えたのだ。
昼は仕立て屋の小屋の外で布屑を選り分ける。丈夫な端切れは袋に、薄くなった布は包帯用に、さらに細いものは縄の補修に。指先には針の穴に糸を通す技が宿り、目は布の織りの向きを読むようになった。
「いい目だよ、ヨウリン」
店主の老女が言う。「糸の通り道が見えてる。そういう目は、ものごとの筋を外さない」
褒め言葉に、ヨウリンは笑わない。ただ、頷く。笑うと、頬の筋肉が緩み、集中がほどける気がして嫌だった。
午後、陽が傾き始めると、彼女は外へ出る。町の外れ、小さな岩の広場。そこがヨウリンの「遊び場」だ。
岩は日中の灼熱を吸い込み、夕方にはまだぬるい。岩の間には隙間があり、砂が溜まっている。足場は不安定、だがそれがいい。
彼女は片足で立つ。目を閉じる。風の向きと、砂が肌を撫でる角度で、自分の体の傾きを測る。膝裏をわずかに緩め、足の甲を伸ばす。体が前へ倒れる直前、つま先で地面を掃くように円を描く。
最初は転んだ。膝を切り、肘を擦りむいた。けれど、痛みは彼女を止めなかった。止まると、明日の水がこぼれる。明日のパンが消える。だから続けた。
「三で抜く、七で沈む、十で立つ」
彼女は数字で体を刻む。呼吸は二拍吸って三拍で吐く。五で目を開け、八で閉じる。数字は彼女にとって呪文だった。呪文を唱えると、世界が遅くなる。遅くなると、足の裏で砂一粒の位置がわかる気がした。
町の子どもたちは、ときおり彼女をからかった。
「赤い頭、火事の子!」
「足の細いのに偉そうに歩くな!」
だが、彼らが吐く石混じりの言葉は、ヨウリンの皮膚を掠めるだけだ。怒れば体が重くなる。重くなると、転ぶ。転べば血が出る。血が出れば、母が心配する。――それだけが嫌だった。
ある日、仕立て屋に粗暴な男が来た。腕に古い刀傷、目の奥に油のような濁り。
「今すぐ直せ。今、だ」
男は破れた袖を投げつけ、代金を机に叩きつけた。硬貨は少ない。あからさまな足元見。店主は肩をすくめ、ナジュを見る。
ナジュは静かに受け取り、針を走らせる。男の視線は店の奥にいるヨウリンにも流れた。
「赤い頭。珍しいな」
その目つきに、ヨウリンは足の裏が冷たくなるのを感じた。砂の冷たさではない、警鐘の冷たさ。
彼女は男から目を逸らし、布屑の袋を肩にかける。肩にかける動きの中で、重心を低くする。膝のバネに、いつでも跳べる力を貯める。彼女の体は、いつの間にかそういう癖を身につけていた。
夕暮れ、空が銅のようにくすみ、風が止む瞬間――ヨウリンは岩場で新しい遊びを始めた。
片足で立ち、もう片足を前へ突き出す。足先で、花を描く。
円の中心から花弁を広げるように、砂の上に淡い跡を刻む。花弁は五枚、七枚、九枚。奇数の方がバランスが崩れにくい。足を引くとき、かかとをわずかに外側へ逃がす。
「ふわり、と」
自分の足先が自分の体から離れて、独りでに踊るように見える瞬間がある。そのとき、体は地面から解放される。空気の中に第二の足場が生まれる。
――彼女はそれを、まだ知らない名前で呼んだ。
「花の蹴り」
別の日、彼女は細い樹木の枝を拾い、地面に線を引いた。線は互いに交差し、小さな格子を作る。格子の上を、右足と左足を交互に入れ替えながら進む。
足は線を踏んではいけない。線を踏むと、砂が崩れる。崩れると、世界が崩れる。
最初は、三格子で足がもつれた。次は五格子。やがて、十格子、十五格子。格子の幅を狭めるほど、足の運びは速く、静かになった。
彼女の足は、鳥が砂に残す跡のように軽くなってゆく。音は消え、残るのは軌跡だけ。
「槍のように」
前へ伸ばした足が、直線に走る。砂を裂く。その残像を、彼女は嬉しそうに見つめた。
母は夜になると、油の少ないランプの火を見つめていた。
「お前の脚は、いい脚だね」
母はぽつりと言った。「地面に逆らわない脚。踏みつけない脚。地面に嫌われない脚は、遠くへ行ける」
ヨウリンは「遠く」という言葉に反応する。遠くは、町の外。岩の向こう、蜃気楼の向こう。
「遠くって、どこ?」
「わたしにもわからないよ。でも、遠くへ行った人の話は、いつも戻ってこないから、たぶん良いところさ」
母は冗談めかして笑い、指先についた糸くずを吹いた。
ヨウリンは笑わなかった。遠くへ行くには、笑っている暇がない気がした。彼女は笑いを胸の奥にしまい、足の裏に集中を戻す。
市場では、ときどき旅芸人が見世物をした。壊れた太鼓、歪んだ笛。踊り子が片足で回り、回転の勢いで砂が渦を巻く。その渦の中心は静かだ。
「回るなら、静けさの中心に立て」
旅芸人の男が子どもたちに声をかける。ヨウリンは人垣の背後で、男の足首の動きを見た。
足首は固めず、柔らかすぎず。膝は微かに前に出て、踵は重さを忘れている。
「……」
ヨウリンはその夜、岩場で同じ姿勢を試した。回る。目を閉じる。砂は彼女の足の周りに輪を描くが、中心は静かだ。
回転の途中、彼女はふいに足を止め、踵で砂を払った。払った砂が宙でほどけ、細い帯のように流れた。
彼女はその動きが気に入った。
「炎の冠みたい」
名前を付けると、動きは自分のものになる。彼女は動きに名前を与え、名前に体を合わせた。
雨のない季節が続き、町の空気はますます尖った。夜ごと喧嘩の声が増え、朝には血の跡が乾いていた。
ヨウリンは血の色に足を止めない。血を避けると足のリズムが崩れる。崩れると、一日が崩れる。
彼女は血の上を、砂と同じように「行く」。
行くとき、足は軽い。軽くなければ、遠くへは行けない。
ある夕暮れ、岩場に先客がいた。
年の近い少年が二人、低い声で何か話している。手には短い棒。棒の先は黒く焦げ、何かを焼いた匂いが残っている。
「赤い頭の女だ。おい、見てろよ」
一人が棒で砂に線を引く。線は彼女の格子をぐちゃぐちゃに壊した。
「通りたきゃ、ここを踏まずに行ってみろよ」
もう一人が笑う。
ヨウリンは二人の目を見ない。砂を見る。線の幅、深さ、砂の粒の細かさ。
「三で抜く、七で沈む、十で立つ」
心の中で数字が鳴る。足が動く。
線の間を、左右の足が交互に差し込まれ、抜け、戻る。つま先は線を跨がず、踵は地を忘れている。
少年の笑い声が止む。棒の先が砂に落ち、音を立てる。
ヨウリンは最後の線の手前で止まり、片足で静止した。
風が頬を撫でる。
彼女は、そのまま踵で砂を払った。砂が舞い、壊された格子の跡がふわりと薄れる。
「……なんだよ」
少年が呟く。
ヨウリンは何も言わず、踵で小さな円を描き、去った。
その夜、母は珍しく歌を口ずさんでいた。遠い昔に覚えたという子守歌。
「砂は流れても、足跡は残る――」
小さな声。
「でも、風が吹けば、足跡もきれいに消える」
母はそこで歌を止め、ランプの火を摘んだ。「消えるのは、悪いことばかりじゃないさ」
暗闇の中で、ヨウリンは目を開けた。暗闇が、彼女にははっきり見える。風が運ぶ砂の匂い、遠くで鳴る犬の声、壁の向こうを歩く足音。
彼女の体の中に、見えない線が増えていく。線は互いに交差し、形を作る。形はやがて、技になる。
技は、まだ名前を持たない。けれど確かに、そこに芽生えていた。
翌朝、ヨウリンはいつもより早く起きた。空はまだ群青で、東の端に白い線が一本。
壺は置いていく。今日は水ではなく、足に行かせたい。
彼女は町外れの丘を目指して走った。
走る――といっても、荒地の走り方がある。最初の五歩は小さく、膝を緩めて砂を受ける。次の五歩で足の幅を広げ、空気を胸の奥に落とす。十歩目で呼吸を一度止め、十一歩目で吐き切る。
彼女の足は、音を持たない。風だけが、彼女の脇を鳴らして通り過ぎる。
丘の上に立つと、世界の色が一段薄くなる。町が小さく見える。井戸の列も、仕立て屋の布も、岩の広場も。
ヨウリンは踵をそっと砂に埋め、つま先で円を描いた。円は二重になり、内側だけが深くなる。
内側の円に片足を入れ、外側の円へ踏み替える。
「ここが、花の芯」
彼女はつぶやいた。
風が吹いた。砂が舞った。
彼女の足は、砂の上に花を咲かせる。
その花は、まだ誰も知らない。だがいつか、世界を震わせる。
――荒地の少女の、静かな日々は、こうして続いた。
だが、静けさはいつまでも続かない。
最初の「危機」は、ある日の昼下がり、井戸の列で起きる。