第3話:〈セーブ01〉「監視者の庭」
学園生活は、完璧なまでに「ゲーム」の進行通りだった。
日差しが降り注ぐ中庭。噴水の水音。談笑する生徒たちの声。
そして、私、エルレイン・ド・ヴァレンシュタインの周りに集まる、攻略対象たち。
まず、王太子セシル・エドワード・フォン・ハインリヒ。金色の髪にエメラルドの瞳。学園中の注目を集める、まさに絵に描いたような王子様。彼は今日も私に完璧な笑顔を向ける。
「エルレイン、昼食はもう済ませたかい? よければ、この後、温室で新しい希少な薔薇を見ないか」
完璧すぎる誘い。ゲームのイベントスチルが見えるようだ。
次に、騎士団長ユリウス・フォン・ライゼンベルグ。黒曜石のような瞳を持つ寡黙な騎士様。私のボディガードとして常に控えめに傍らに立つ。彼は今日も無表情で、微動だにしない。
(このユリウスは、私を助けてくれなかったユリウス。……いや、まだわからない)
第1話で私を死なせた、あの絶望に歪んだ顔のユリウスと、今のユリウスは違う。少なくとも、表面的には。
そして、天才魔術師アレン・クロード。銀色の髪とアンバーの瞳。本ばかり読んでいる変わり者。彼はいつも少し離れた場所で、壁にもたれて、私をちらりと盗み見ている。今日も、その姿勢は変わらない。
(彼のルートでは、私が魔物から世界を救うことになった)
そんな、荒唐無稽な記憶まで鮮明に残っている。
まるで、**「セーブ01」の地点に、私が巻き戻されたかのようだ。
目の前にいる彼らは、このロード地点での「初期設定」の状態。
私の選ぶ「選択肢」**によって、彼らの人格も、運命も、まるで別のものに書き換えられていく。
そして、彼らがどう変わろうと、私だけが、全ての記憶を背負って進む。
「……ええ、殿下。ぜひご一緒させていただけますか」
私はセシルの誘いを受け入れた。
完璧な笑顔を崩さないまま、彼の隣を歩く。中庭を抜けて温室へ向かう道中、学園の生徒たちが一斉に私たちに注目する。
その視線が、まるで私たちを照らすスポットライトのように感じられた。
「エルレイン」
不意に、セシルが足を止めた。
「君は、最近、少し浮かない顔をしているように見える。何か悩み事でもあるのかい?」
優しい声。だが、私の記憶の中のセシルは、こんなに他人の感情に敏感ではなかった。彼はもっと自己中心的で、自分の理想のヒロイン像を私に押し付けようとした。
(これも、観測者の意図?)
私が「悩み事」を抱えていると設定されているのか。あるいは、私が「完璧なヒロイン」を演じきれていないと、観測者に判断されたのだろうか。
「いいえ、殿下。ご心配には及びませんわ。ただ、少し、朝の目覚めが優れなかっただけです」
無難な回答を返した。しかし、セシルは首を傾げた。
「そうか? 私には、君がまるで……この世界に飽きているかのように見えたが」
彼の瞳が、私を射抜くように見つめる。その一瞬、完璧だった彼の笑顔に、微かな、しかし決定的な「ひび」が入ったように見えた。
(……っ!)
心臓が跳ね上がった。
今、彼は、私がゲームの登場人物であることを、薄々感づいているようなことを言ったのか?
それとも、これは彼の「初期設定」にはない、観測者の直接的な干渉によるものなのか?
「殿下、それは……どういう意味でございますか?」
私は表情を崩さずに問い返す。冷たい汗が背中を伝った。
「いや、他愛ない冗談だよ。気にしないでくれ」
セシルはすぐにいつもの完璧な笑顔に戻った。そのひびは、幻だったかのように消え去った。
(冗談……?)
まさか。あれは冗談などではなかった。
彼は、確かに私の内側を、私の「飽き」を見抜こうとした。
観測者は、私に何をさせたい?
私が「ゲームのヒロイン」であることを自覚した上で、それでも「攻略」を続けさせるつもりなのか?
温室に到着した。
甘い花の香りが満ちている。
セシルは、鮮やかな赤い薔薇を指差した。
「この薔薇は、最近導入された新種だ。名を『未練』という」
(未練……!)
その言葉が、私の耳に鋭く突き刺さった。
選ばれなかった選択肢たちの怨念。私の内側で囁く、無数の死の記憶。
そして、観測者が私に求めているという「未練」。
「美しいわ、殿下。ですが……少し、悲しげな色をしておりますわね」
私は、その薔薇を見つめながら呟いた。
まるで、私の過去の選択が、この花に宿っているかのようだ。
セシルが、その薔薇の棘に触れた。彼の指先に、微かな血が滲む。
「悲しげ、か。だが、私はこの色が、いっそ愛おしい。全てを諦めきれない、強い執念を感じるからだ」
彼の目が、薔薇ではなく、私を真っ直ぐに見ていた。
(執念……)
それは、私のことか。この世界を「ログアウト」しないと決めた、私のことか。
温室を出た後、私はユリウスの元へ向かった。
「騎士様」
「エルレイン様」
彼は相変わらず無表情で、私に一礼する。
「私、今朝、とても奇妙な夢を見たの。貴方が……私を殺す夢を」
私は試しに告げた。
ユリウスの顔に、微かな動揺が走る。それは、セシルの完璧な笑顔のひびよりも、ずっと生々しい、人間の感情だった。
「……滅相もございません、エルレイン様。私は、あなた様をお守りする盾。決して、そのようなことは」
彼は顔を青くしている。
(このユリウスは、私を殺していない。だから、この記憶に反応する)
私の直感は、確信へと変わった。
ループごとに、彼らは「初期設定」に戻され、私の記憶を共有しない。
だが、私がその「記憶」を彼らに提示した時、彼らは「バグ」を起こすのだ。
まるで、彼らのプログラムに、予期せぬデータが上書きされたかのように。
「そうね。きっと、悪夢だったのでしょう」
私は微笑んだ。その笑みは、完璧なエルレインの笑顔ではなかった。
そこには、全てを理解し、支配しようとする、底知れない冷徹さが宿っていた。
**「観測者」よ。
あなたは、私がこの世界で、完璧なヒロインを演じ、正しい選択肢を選び続けることを望むのだろう。
だが、私は違う。
私は、この世界の真実を知ってしまった。
この世界は、私の「未練」を喰らい、そして私の「執念」**によって、その姿を変える。
私は、あなた方が見ているこの「ゲーム」を、私自身の物語に変えていく。
完璧な舞台に、不完全な「私」という異物を投げ入れる。
それは、バグか。それとも、新たな「ルート」の始まりか。
中庭を見下ろす窓辺で、私は一人、静かに笑った。
その笑みは、まるで、獲物を狙う狩人のようだった。
──ここが、最初のセーブポイント。ゲームは、まだ始まったばかり。