第2話:〈ロード01〉「選択肢の亡霊」
セシル殿下の完璧な笑顔は、完璧すぎて胃に悪い。
学園の始業式。優雅な挨拶を交わす私たちの周りを、ざわめきが包む。羨望、嫉妬、憧憬。その全てが、薄っぺらい紙切れのように思えた。
「エルレイン、君は本当に美しい。今日の君のドレスも、宝石も、全てが君のためにあるようだ」
セシルの言葉は、第1話のプロローグで私が“体験”した時と寸分違わぬ。声のトーン、瞳の輝き、指先の微かな動きまで。
(……ロード成功、ってわけね)
心の中で毒づく。
ゲームのシステムなら、ここで「ロード中…」なんて表示されるのだろうか。あるいは「データ同期完了」とか?
セ吐きそう。
私が知っているセシル殿下は、もっと高慢で、もっと自信家で、そして、もっと……人間味があった。
そう、私が「プレイ」した、あのゲームの中のセシル殿下は。
今の彼の「完璧さ」は、まるで丁寧に磨き上げられた人形のようだ。表面は美しいが、その奥に何も無いように感じる。
「光栄に存じますわ、殿下」
私は台本通りの笑顔を返す。この会話劇は、きっと誰かに“観測”されている。
誰が。何のために。
それはまだ、わからない。だが、明確な意思を持って、私をこの「ゲーム」に縛り付けている存在がいる。
始業式の後、私は自室へ戻った。今日は早々に疲労困憊だ。
ミリアが紅茶を淹れてくれる。その手つきも、どこか既視感がある。
「お嬢様、本日は王太子殿下とどのようなお話をなさいましたか?」
無邪気な問いかけ。彼女は、私が抱える世界の異常性には気づいていない。
「そうね……変わらない、いつものご挨拶を」
私は曖昧に答える。
「まあ! 殿下がお嬢様にお声がけくださると、学園中の皆が注目するのですわ。お嬢様は、本当に殿下にお似合いです!」
ミリアは目を輝かせている。
この“ミリア”は、何度目の私なのだろう。
毒を盛られたルートのミリアは、もっと陰気で、目に光がなかった。
ユリウス様と逃亡したルートのミリアは、私が駆け落ちしたと知って、悲鳴をあげて泣き崩れた。
あの時、ミリアは私を止めた。本気で心配してくれた。
(……このミリアは、あのミリアではない)
私は確信する。
姿は同じ。声も同じ。だが、その根底にある「人格」が、微妙に、しかし決定的に異なっている。
まるで、私の選択によって、彼女の「キャラクター設定」が書き換えられるかのように。
「ミリア、少し聞きたいことがあるのだけど」
私はカップをソーサーに戻した。
「はい、何なりと」
「……私と殿下は、婚約者として、とても仲が良いと思われているわよね?」
「もちろんです! 国中の誰もが、お二人のご成婚を心待ちにしています」
彼女は当然のように答える。
「もし、私が……殿下ではない、別の男性に心を惹かれたとしたら、あなたはどう思う?」
試すように尋ねた。
ミリアは、ほんの一瞬、沈黙した。
その顔に、微かな困惑と、ほんのわずかな「嫌悪」が浮かんだのを、私は見逃さなかった。
「……お嬢様。それは、冗談でもおっしゃらないでくださいまし」
ミリアの声が、冷たくなった。
「お嬢様は、王太子殿下とご婚約されているのです。それは、神に誓った約束であり、この国の未来を左右する重大なことです」
彼女の目が、私を糾弾している。
まるで、私が「間違った選択肢」を選ぼうとしているかのように。
(なるほど)
私は、心の中で冷笑した。
この世界の住人たちは、「主人公」たる私が「正しいルート」を選ぶことを、無意識のうちに求めているのだ。
それは、ゲームのNPCが設定された役割を全うするように。
あるいは、観測者の「期待」に応えるように。
「……そうね。悪戯が過ぎたわ。忘れてちょうだい」
私は微笑んだ。その顔は、やはり完璧なエルレインのそれ。
ミリアはすぐに笑顔に戻り、「冗談はおやめください、お嬢様」と軽くいなした。
だが、私は忘れない。
彼女の目に浮かんだ、あの微かな「嫌悪」を。
それは、私が「王太子との婚約を破棄する」という選択肢を選んだ時に、NPCが示す反応そのものだった。
まるで、私の思考すら「観測」されていて、その可能性が提示されただけで、彼らが「反応」するように。
世界は、私に「正しい道」を歩むことを強要している。
まるで、誰かの手の中で踊らされる人形のように。
夜。
自室の窓から満月を眺める。
闇の中に、微かに揺れる灯り。それは、遠く離れた街の明かりだろうか。
それとも、私を「観測」する、見えない誰かの、眼差しなのだろうか。
私の脳裏には、複数の「私」の記憶が去来する。
騎士ユリウスに助けを求めて、共に逃亡した「私」。
毒殺された「私」。
貴族の権力闘争に巻き込まれて命を落とした「私」。
そして、完璧なヒロインを演じ続け、セシル殿下と結ばれた、あの「完璧な私」。
それらの全てが、私の身体の中に、無理やり押し込められている。
選ばれなかった選択肢たちの亡霊が、私の脳裏で囁く。
「お前は、このルートを選んだのか?」
「なぜ、別の道を選ばなかった?」
「私を、なぜ、見捨てた?」
私の中から、怨嗟の声が聞こえる。
それは、過去の私が選んだ、あるいは選ばなかった選択肢によって、死んだ誰かの声のようでもあった。
あるいは、私自身の、未練の声。
(違う。私は、誰の亡霊にもならない)
私は、窓ガラスに映る自分の顔を睨みつけた。
白銀の髪に水色の瞳。そこに宿るのは、かつての「完璧なヒロイン」の笑顔ではない。
宿るのは、抗う意思と、底知れない覚悟だった。
「誰が“観測者”か知らないけれど」
私は静かに呟く。
「この“ゲーム”のルールは、私が書き換える」
王太子セシルの完璧な笑顔。
侍女ミリアの微妙な反応。
そして、私の内側で騒めく、無数の死の記憶。
全てが、次の「選択肢」へ繋がっている。
このロードは、私を過去に戻したのではない。
私を、より深く、この物語の核心へと誘う。
まるで、観測者が、私の“未練”を試すかのように。
──私は、まだ、ログアウトしない。